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日蓮大聖人・池田大作

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講義「方便品・寿量品」(池田大作全集第35巻)

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6  「浄土」の真の意味──仏国土を清浄に
 「厭離穣土・欣求浄土」という言葉が、古くから日本で使われてきました。この苦悩の現実社会を厭い離れ、死後の極楽往生を願う──仏教は長い間、そのような逃避的、消極的、厭世的な宗教と考えられてきたのです。
 しかし、「現実から離れた浄土」という考えは、衆生の機根に合わせて仮に説かれた方便にすぎません。一時の慰めにはなっても、真実の幸福をもたらす教えではありません。
 日蓮大聖人は「守護国家論」のなかで、「法華経を修行する者は、いずれの浄土を願ったらよいのか」という問いに答えて、次のように述べられています。
 「法華経二十八品の中心である寿量品に『我常に此の裟婆世界に在り』とある。(中略)この文のとおりであるならば、久遠実成の本地を顕した完全な仏は、この裟婆世界にいる。だから、この裟婆世界を捨てて、その外にどこの国土を願う必要があろうか」(御書七一ページ、通解)
 ″浄土は裟婆世界に求めよ″と仰せなのです。この現実社会こそ、本来、浄土なのです。
 そして、その本来の浄土を実現していくために努力していくことにこそ、仏教の精神があるのです。
 仏教は、決して、人里離れた山林にこもり、自分だけの悟りを目指すような宗教ではない。また、現世をあきらめて、死後の幸せのみを期待するような宗教でもありません。
 「浄土」という語には、「浄仏国士」つまり「仏の国土を清浄にする」という積極的、実践的な意義が込められています。本来、ここに「浄土」の意義があるのです。日本の仏教では、この本義が完全に消え去り、浄土は「死後の世界」「あの世」になってしまいました。「浄土」とは、すなわち「土を浄める」ことです。環境を変革する行動であり、建設なのです。
7  「立正安国」の精神に仏法の正統
 経典には、国土変革のための具体的な行動さえ説かれている。
 たとえば、釈尊は「不毛の土地に木々を植え緑豊かな園林となし、川に橋をかけ、乾燥地に井戸を掘り灌漑池を作り、道に旅人たちのための休息所をつくる──このような人の功徳は日々増大し、真理に立つことができる」(『ブッダ 神々との対話』中村元訳、岩波文庫、参照)と言っています。
 この釈尊の精神を、国家の政治理念として実行したのが、アショーカ大王でした。
 正法時代の大論師・竜樹も、当時の王に「病人、孤児、貧しき人を保護せよ」「災害、凶作、疫病などで荒廃した地域で、人々の救済活動を行え」「人を権力で不当に拘禁してはならない」(「ラトナーヴァリー」瓜生津隆真訳、『世界古典文学全集』6所収、筑摩書房、参照)などと諌言しています。
 仏教における「浄土」の本義は、大聖人の「立正安国」の理念と実践にのみ生きている、と言わざるをえない。現実の国土の変革──この精神こそ仏法の正統なのです。
 戸田先生も「わがこの裟婆世界は安穏、平和のところでなければならない。原子爆弾がとんだり、爆弾が飛行機からふったりしてはならないのである。人殺しだの、餓死だのということが、妙法流布の世界にはあってはならない」(『戸田城聖全集』3)と語られていた。
 皆さんも、勤行の時に世界平和、全民衆の幸福を御祈念されている。また、来る日も来る日も、友の悩みを聞き、広布の実践に励まれている。まことに尊い「浄仏国土」の実践なのです。
 創価学会は、仏の使いとして菩薩道を行じている。″わが地域を、そしてこの国を、また全世界を、常寂光土と光り輝かせていこう″──こう決意して進むなかに、「裟婆世界説法教化」の姿があるのです。

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