Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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講義「方便品・寿量品」(池田大作全集第35巻)

前後
11  だれもが広布の使命を分かちもつ仏子
 次元は異なりますが、私どもも、自身の信心のうえ、広宣流布の実践のうえで、本地を顕しゆく一人一人でありたい。
 「顕本」とは、最も深い自覚に立つことですそして、その自覚を実践のうえに″顕す″ことです。
 戸田先生は言われた。
 「教相面すなわち外用のすがたにおいては、われわれは地涌の菩薩であるが、その信心においては、日蓮大聖人の眷属であり、末弟子である」(『戸田城聖全集』3)──この確信が、「学会の中心思想」である、と。
 皆が、日蓮大聖人直結の仏子であるとの自覚に立つことが、創価学会の発迹顕本です。
 学会の発迹顕本の日──それは、戸田先生が第二代会長に推戴された昭和二十六年五月三日だった。
 この時、戸田先生は「七十五万世帯の折伏」を大宣言された。この大師子吼によって、学会総体に「われ地涌の菩薩なり」「われ御本仏の本眷属なり」との″偉大な自覚″がみなぎったのです。
 この日の前後、戸田先生は何度も語っておられた。
 ──顧みれば、昭和十八年の春ごろから、牧口先生は口グセのように、学会は「発法顕本しなくてはならぬ」と言われていた。この発迹顕本の事実をあらわさなければわれわれが悪いように言われたのである。皆、ただとまどうだけで、どうすることもできなかった──と。
 その牧口先生のお心を、戸田先生はついに実現したのです。師弟の絆こそ発迹顕本の鍵です。私たちは皆、御本仏の仏子です。使命のない人はいません。本地をもたない学会員はいません。
 戸田先生が著された小説『人間革命』では、戸田先生の獄中の悟達が描かれていますが、その主人公(巌さん)は、長屋住まいの一庶民です。なぜ、あえて、平凡な一庶民を主人公にして、悟達のシーンを描かれたのか。それは、「だれもが等しく広宣流布の使命を分かちもった仏子であることが、よく分かるからだ」と、戸田先生は語っておられた。
12  ″本来の自身″に行き詰まりはない
 本地とは、″本当の自分自身″です。自らの本来の使命を自覚した人は、仏の命が力強く涌現し、どんな人生も悠々と勝ち切っていける。楽しい有意義な人生行路を生きていける。
 ゆえに、″広宣流布とわが人生″とのテーマを持って生きる人には、行き詰まりはない。
 大聖人の生命も、御本尊の力も広大無辺であり、宇宙大です。私たちの生命も無限の可能性を秘めている。あとは、私たちの一念です。
 もし、行き詰まりを感じたならば、自分の弱い心に挑み、それを乗り越えて大信力を奮い起こしていく。それが私たちの「発迹顕本」である、と戸田先生は言われていました。行き詰まりとの闘争が信心です。魔と仏との闘争が信心です。仏法は勝負です。
13  毎朝、仏と共に起き 毎夕、仏と共に臥す
 私たちは、毎朝、生命の根源から一日を出発する毎朝、胸中から「元初の太陽」が昇るのです。
 「朝朝ちょうちょう・仏と共に起き夕夕せきせき仏と共に臥し時時に成道し時時に顕本す」と。
 「時時に顕本」です。唱題し、広宣流布に連なる活動に励む時、わが身に自受用身──本来の自分が顕われて、智慧が働き、勇気がわき、行き詰まることなく自由自在に自らの境涯を楽しめるのです。それが私たちの「発迹顕本」です。
 「御義口伝」では、寿量品の「我実成仏己来無量無辺」の一節を「我実と成けたる仏にして已も来も無量なり無辺なり」と文底の立場から読まれている。信心によって「自分は、本来、仏である」と開けば、過去久遠の生命(巳)も未来永遠の生命(来)も、ともにはらんだ現在の自分が顕れるのです。永遠の生命の大舞台で自在に活躍できると教えられているのです。
 寿量品とは、この私たち一人一人が本来、持っている宇宙大の生命力を明かしているのです。

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