Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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所以者何。如来方便。‥‥  

講義「方便品・寿量品」(池田大作全集第35巻)

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7  信心に具わる智慧波羅蜜
 舎利弗をはじめ、この方便品の説法を聞いていた会座の人々はどう思ったのか。″そんな完全な仏智は自分には縁がない″と思ったのか。そうではありません。″人を救えるすばらしい仏智であるのなら、自分もそれを学びたい。身につけたい″と思ったのです。
 すなわち、方便品には舎利弗たちが「具足の道を聞きたてまつらんと欲す」(法華経一一五ページ)と、願ったことが説かれています。皆己具足」の仏の境涯に至る「道」を聞きたいという求道心を起こしたのです。「自分はもうこれでいいのだ」などとは考えなかった。「より高く」「より深く」と生命が弾んでいった。この「具足の道」について、大聖人は「開目抄」で「南無妙法蓮華経これなり」と仰せです。
 爾前権教では、この仏の境涯を得るための菩薩の修行として「六波羅蜜」が説かれています。布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の六つの修行によって、仏の境涯に近づこうとする実践です。この修行は、歴劫修行(無量の劫を経る修行)です。
 しかし、法華経の開経(序説)である無量義経には、法華経の功徳として「未だ六波羅蜜を修行することを得ずと雄も、六波羅蜜は自然に在前し」(法華経五三ページ)と説かれている。すなわち、六波羅蜜を修行しなくても、法華経を持てば、六波羅蜜は自然に具わるのです。
8  法華経の分別功徳品第十七には、法華経を聞いて信じ理解する功徳は、計り知れないと説かれています。その功徳は、八十万億那由佗劫もの長い間にわたって「智慧波羅蜜(般若波羅蜜)を除く五波羅蜜」を修行する功徳よりも、百千万億倍も大きいとされている(法華経五〇二ページ)。「智慧波羅蜜を除く」とあるのは、智慧波羅蜜は、他の五波羅蜜とは比較にならないほど重要な、根本となる波羅蜜だからです。むしろ五波羅蜜は、この智慧波羅蜜を得るための修行であるとも言えます。仏法は、どこまでも「智慧」を重視するのです。
 ですから大聖人は、末法においては、初心の行者は五波羅蜜の修行は必要ないと述べられています(「四信五品抄」御書三四〇ページ)。僧侶への布施や戒律などの五波羅蜜が熱心に説かれていた当時、この大聖人の修行観は、一大宗教革命でした。
 しかも、大聖人の仏法では、「以信代慧」(信心を以て智慧に代える)と説きます。正しき「信心」が即「智慧」となる。私たち末法の凡夫は、御本尊を信ずることによって、この智慧波羅蜜をはじめ「六波羅蜜」をすべて修行したのと同じ功徳を得ることができるのです。
9  結論すれば、今日においては、御本尊を信じ、学会と共に広宣流布へと歩んでいく人が「六波羅蜜」の功徳を得られるのです。
 皆と一緒に、広布の活動に励んでいく人生こそが、最高の「智慧の人生」となっている。
 多くの先輩たちの姿がそれを証明しています。あとから振り返れば、よく分かるのです。
 そして、信心しているからこそ、私たちは、だれよりも賢明な「信心即生活」「行動即健康」の日々を送っていきたいものです。

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