Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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舎利弗。吾従成仏己来。‥‥  

講義「方便品・寿量品」(池田大作全集第35巻)

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13  一人を「譬喩」として万人が勝利を
 次に「種種譬喩」の「譬喩」とは、爾前経で説かれてきた「譬え話」をいいます。そのままでは、なかなか分からない仏法の真理も、自然の道理や身近な生活上の例を通して語れば、よく分かるからです。ですから、譬喩の根本は人々に対する慈悲です。慈悲の心が強いからこそ、「少しでも分かりゃすく」と巧みな譬喩が説き出されるのです。
 仏は、人々の機根に応じて、あらゆる現象、目に見えるものを譬喩として使います。
 たとえば、爾前経では、煩悩を、人を押し流す「激流」に譬え、仏性の光を隠す「覆い」に譬え、心身を焼き即応くす「火」に譬え、多大の害を与える「毒」に譬え、迷い込んだら出られない「密林」などに譬えています。このように、煩悩の恐ろしさを教えて、煩悩から離れさせようとしたのです。
 しかし、煩悩から離れることだけが仏の悟りではありません。爾前経の譬喩は、あくまでも仏の智慧の一面を譬えているにすぎない。むしろ、これらの譬喩にとらわれれば、仏の悟りから遠ざかる害があるのです。これに対して、法華経の譬喩は、仏の智慧と一体の譬喩です。仏の悟り、智慧をそのまま開き示すためのものだからです。
 さらに、根本の法である南無妙法蓮華経から振り返るとき、法華経二十八品を含む一切経は、ことごく、南無妙法蓮華経の御本尊を人々に理解させようとした、壮大な譬喩であると言える。
 また文底の立場から見れば、生活のうえに現れる信心の実証は、御本尊の功力を説明する譬喩です。現実生活の実証という「譬喩」は、御本尊の真理をじつに雄弁に語っているのです。
 戸田先生は、「種種譬喩」について、大聖人御在世当時の信徒が、「死身弘法に励み、功徳をうけきっている姿を示すのは、われわれにとって譬喩であります」(『戸田城聖全集』5)と語られていた。
 当時の門下の活躍は後世の鑑です。職場での苦難を乗り越えた四条金吾、信心に反対だった父親を入信させた池上兄弟、病魔の宿業を断ち切り、後継の使命に生きた南条時光、亡き夫の分も戦いぬいた妙一尼御前──等々。苦境を乗り越えた門下の実証の姿は、同じ問題に直面した私たちにとって大きな激励となっています。この原理は今も変わりません。私たちの体験談も同じ原理です。「一人」の勝利の体験は、多くの人に勇気と希望と納得を与えます。
 あなたが勝とことは、「万人が勝てる」立派な例証となるのです。あなたが困難に打ち勝つことは、人々に「それならば、私も勝てる」「あの人も勝てる」「皆が勝てる」という確信を与える。妙法の力を語るのに、「たとえば、あの人を見てごらん」「たとえば、あの人間革命の姿を見てごらんなさい」と、人々は、あなたの勝利を「譬喩」として語れるのです。
 その意味で、私たちは、人々のために、人間革命の、たくさんのドラマをつづっていきたい。わが人生を、多くの「種種因縁」「種種譬喩」で飾りたい。そして、わが地域を、あの人も勝った、この人も幸福になったという、多種多様な人間革命の「種種譬喩」で、花園のごとく荘厳していこうではありませんか。
14  執着を見極める智慧
 「諸の著を離れしむ」とは、釈尊が、「因縁」や「譬喩」を通して、人々のさまざまな欲望、迷いを取り除かせようとしたことを述べています。
 人を不幸にする元凶は、さまざまな物事に「執着」する心です。「執着」とは、文字どおり「とらわれる心」です。「煩悩」や「欲望」などです。釈尊は爾前経で、不幸に沈む九界の人たちに、執着から離れる道を教えた。それが、「令離諸著(諸の著を離れしむ)です。しかし、法華経の心は、煩悩を断ずることではない。妙法を根本としたとき、煩悩をそのまま菩提に転ずることができるのです。これを「煩悩即菩提」といいます。
 日蓮大聖人は「御義口伝」で、法華経薬王品の「一切の苦を離れしむ」という経文について、「離の字をば明とよむなり」──「離」の字を「明らむ」と読むのである──と仰せです。
 「諸の著を離れしむ」とは、大聖人の仏法では「諸の著を明らめしむ」と読むのです。っ執着を離れるのではなく、明らかに見ていく。すなわち、煩悩、執着を捨て去るのではなく、正しく見極め、幸福への原動力へと生かしていくことです。
 確かに、「執着」を離れよ、と言われでも離れられるものではありません。また、仮に、離れたとしたら、現実社会に生きていくことなどできません。大事なことは、執着に振り回されず、使いきっていくことです。そのために、執着を執着として明らかに見ていくことが大切となる。
 戸田先生は、次のように語っておられた。
 ──執着を執着として明らかに見せてくれるのが御本尊であります。あなた方も、執着があると思います。私にも執着がある。みんなに執着があるから、味のある人生が送れるのであり、大いに商売に折伏に執着しなければならない。ただし、その執着が自分を苦しめない執着にするのがわれわれの信心である。執着に使われではならない。自分の執着を使い切って、幸福にならなければならないのであります──と。
 この、「執着を明らめて使い切る境涯に」「大いに執着し、味のある人生を」という生き方こそ、大乗仏教の真髄です。要は、大いに煩悩を燃やし、その分、真剣に題目をあげ、行動していけばよい。そうすれば、煩悩がバネとなって、自分の成仏が進むのです。
 信心は、登るべき「山」を自らつくり、自ら「山」に挑戦していく。その繰り返しです。それが、はじめは自分だけの小さな悩みにとらわれていた境涯が、やがて、友のため、人々のため、人類のためという「大きな悩み」に挑戦できる自分になれるのです。
 そのためにも、つねに「何のため」を考えることが大事です。根本の人生の目的が定まっていれば、執着を使いこなせる。すべてを幸福の追い風にしていける。そのための信心です。この法理は、欲望に流されている現代社会にとって、大きな指標となるにちがいありません。

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