Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第三章 「己心の外に法ありと思はば全く…  

講義「開目抄」「一生成仏抄」(池田大作全集第34巻)

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6  仏性を「よび」「よばれる」
 妙法は「宇宙根源の法」です。その意味では、私たちを超えた普遍性をもっている。しかし、「衆生本有の妙理」とあるように、妙法は、私たちの生命に内在する。いわば「自分の内にあって、自分を超えているもの」が妙法です。また、「すべてのものを包む普遍的な法であるがゆえに、自分の中にも内在している」とも言えるでしょう。
 「法華初心成仏抄」では、「妙法蓮華経」の本質について、次のように仰せです。
 「凡そ妙法蓮華経とは我等衆生の仏性と梵王・帝釈等の仏性と舎利弗・目連等の仏性と文殊・弥勒等の仏性と三世の諸仏のさとりの妙法と一体不二なる理を妙法蓮華経と名けたるなり
 妙法蓮華経は、私たち自身の仏性であるとともに、梵天・帝釈、舎利弗・目連、文殊・弥勒などの仏性であり、それは、そのまま三世の諸仏の悟りの妙法と同じであると仰せです。
 続いて大聖人は、この御文の次下で、題目を「唱える」こととは、十界の一切衆生の心中の仏性を「呼び顕す」実践であると仰せられています。
 「故に一度妙法蓮華経と唱うれば一切の仏・一切の法・一切の菩薩・一切の声聞・一切の梵王・帝釈・閻魔・法王・日月・衆星・天神・地神・乃至地獄・餓鬼・畜生・修羅・人天・一切衆生の心中の仏性を唯一音に喚び顕し奉る功徳・無量無辺なり
 さらに大聖人は、南無妙法蓮華経の唱題の意義について「我が己心の妙法蓮華経を本尊とあがめ奉りて我が己心中の仏性・南無妙法蓮華経とよびよばれて顕れ給う処を仏とは云うなり」と仰せです。
 この「よびよばれて」との表現に、妙法の深義が示されています。
 この原理を分かりやすく示すために、大聖人は有名な譬喩を説かれました。
 ――籠の中の鳥が鳴けば、空を飛ぶ鳥たちが呼ばれて集まってくる。また、空飛ぶ鳥が集まって鳴けば、籠の中の鳥も出ようとするようなものである。(御書557㌻、通解)
 ここで「籠の中の鳥が鳴く」とは、無明・煩悩に束縛された衆生が信心を起こして唱える題目です。「この苦難を妙法の力で必ず解決してみせる」「必ず幸せになってみせる」という信心で唱える題目です。
 このとき、題目の力で、あらゆる衆生の仏性を呼んでいるのです。すると梵天・帝釈、仏・菩薩などの仏性が現れるとともに、唱えた衆生も無明の束縛を打ち破って、自らの仏性を現すことができるのです。言い換えれば、森羅三千に遍満している「妙法」と「我ら衆生」を結び付けるのが、題目の音声の力なのです。
 さらに、大聖人は「新池御書」で、母鳥と卵の譬えを通して唱題の意義を説明されています(御書1443㌻)。これも有名な譬えです。
 そこで大聖人は、南無妙法蓮華経の題目は、「唱への母」であると仰せです。鳥の卵の中身は最初は水分しかないようだが、母鳥に温められると、嘴や目や鎧毛がつくられていきます。そして、やがて小鳥が殻を破って孵り、ほどなく母鳥と同じく大空を翔けめぐるようになる。
 この卵とは「衆生の仏性」、母鳥は「仏の生命」を表していると拝することができます。
 南無妙法蓮華経の唱題は、衆生の信心の声であるとともに、仏の生命の働きでもあるということです。
 この唱題による成仏を実現するために最も肝要なる戒めが、「己心の外に法を見てはならない」ということなのです。己心の外に法があるという考え方は、爾前経の”断絶の世界”にすべてを引き戻してしまうからです。
7  「自分自身が南無妙法蓮華経」の覚悟
 この南無妙法蓮華経の題目には、無量無辺の功力があります。
 戸田先生は、妙法の無量の力について、こう語られたことがあります。
 「広いところで、大の字に寝そべって、大空を見ているようなものだ。そして、ほしいものがあれば、すぐに出てくる。人にあげてもあげても出てくるんだ。尽きることがない。君たちも、こういう境涯になれ」
 まさに、南無妙法蓮華経は如意宝珠に譬えられます。必要なときに必要な力を出すことができる。こうした大境涯を開くためにはどうすればいいのか。戸田先生は、「こういう境涯になりたかったら、法華経のため、広宣流布のために骨身を惜しまず戦うことだ」と常に語っていました。
 まさに三世諸仏や梵天・帝釈とともに、大宇宙のいずこにあっても、人々の不幸と悲惨を断ち切り、生老病死の苦悩を打開しながら、幸福と平和の価値創造の世界を実現していくことです。
 この気宇壮大な心を、戸田先生は私たちに示してくださったのです。
 先生は、徹頭徹尾、己心の内に法を見ていく姿勢を貫かれました。「仏とは生命なり!」「我、地涌の菩薩なり!」との悟達を出発点として、「自分自身に生きよ」と語られていた。
 また、自分自身の妙法に目覚めゆく信心のことを、よく「自分自身が南無妙法蓮華経だと決めることだ!」「自分は南無妙法蓮華経以外なにもない! と決めることが末法の折伏である」とも教えられていました。
 これこそ、まさに「妙法と唱へ蓮華と読まん時は我が一念を指して妙法蓮華経と名くるぞと深く信心を発すべきなり」と仰せられている御精神そのものではないでしょうか。
8  人類宗教の新たな大道
 宗教は、「神」や「法」などの名で、人間を超えた無限なるもの、無常を超えた永遠なるものを説きます。それは、ある宗教では「畏怖」の対象であり、ある宗教では「憧憬」の対象であり、ある宗教では「無」の深淵であり、ある宗教ではすべてを包む「愛」の源泉です。大聖人は、万物を包み支えている妙法の力を、人間に内在するものととらえ、それを人間生命に現す道を打ち立てられた。
 私はかつて、アメリカのハーバード大学で二度目の講演をしたとき(一九九三年九月二十四日)に、現代文明における大乗仏教の意義を論じ、「平和創出の源泉」「人間復権の機軸」「万物共生の大地」という三つの意義を提示した。(「二十一世紀文明と大乗仏教」。本全集第2巻収録)
 その中で、「人間復権の機軸」については、特に「自力」と「他力」の一方に偏らない日蓮大聖人の仏法のあり方が重要であることを論じました。多くの知性の方から共感の声が寄せられております。
 ともあれ、人間は、「他力」すなわち有限な自己を超えた永遠なるものへの祈りと融合によって初めて、「自力」も十全に働きます。しかし、その十全なる力は、本来、自分の中にある。
 大聖人は「自力も定めて自力にあらず」「他力も定めて他力に非ず」と言われている。
 この意味するところは、どちらかに偏ることを排して、「自分の中に自分を超える力を現す」ということであると拝することができます。この道を実現したのがまさに唱題行なのです。
 これによって、自力と他力を分離して一方に偏る宗教のあり方を乗り越える、新しい「人類宗教」の大道を広々と示されているのです。

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