Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第八章 法華の深恩 悪世に法を弘める人を諸天が断じて守る

講義「開目抄」「一生成仏抄」(池田大作全集第34巻)

前後
11  「才能ある畜生」と喝破
 大聖人御在世当時の諸宗は、一切経の中では寿量品の仏こそが成仏の修行の本尊とすべき仏であることを知りません。知らないどころか、事実を隠し、ゆがめている宗派さえある。
 末法は、悪比丘が出来し正法を隠します。その結果、法華経の真実が見失われます。やがて、諸宗は本尊に迷います。
 大聖人は、当時の諸宗の本尊観・成仏観について、寿量品に説かれた成仏の種子を持つ根本の仏に迷っていることを厳しく破折されています。それは、王子が、国王である自分の親に迷い、王をさげすんだり、他人を王と思うようなものであると、分かりやすく教えられています。そして、寿量品の仏を知らない諸宗の者は父を知らない子のように「不知恩」であり、仏法を知っているように見えて、その実は「才能ある畜生」であると鋭く喝破されている。
 ともあれ、法華経を聞いて成仏した菩薩らは、法華経の行者を守るために、磁石が鉄を吸うように、月が水に映るように、たちまちのうちにやってきて仏の前で誓った守護の誓いを果たさなければならない。そうであるのに、なぜ、今まで大聖人を守るために出現しないのか。その結論として、「日蓮・法華経の行者にあらざるか」と、疑いをさらに強められていくのです。
 そして、「されば重ねて経文を勘えて我が身にあてて、身の失をしるべし」(同行)とまで仰せられ、”大いなる疑い”の第二の論述へと考察を引き継がれていきます。
12  本尊とは法華経の行者の一身の当体
 さて大聖人が第一の論述において、法華経で初めて成仏の法を知り、また成仏したとされる二乗、菩薩などの法華守護を論じられているのは、諸天善神の守護の働きは成仏の法である妙法の力によるからであると拝することができます。
 言い換えれば、元品の法性が諸天善神と現れるのです。であればこそ諸天善神は謗訟が充満する国土を見捨てて去ると言われる。しかしまた謗法の悪世にあっても、妙法を守り、妙法を弘めていく法華経の行者がいれば諸天善神がこの人を守るのです。
 どんな悪世でも、諸天善神は、仏法のために戦う人を草の根を分けても探し出し、断じて守護する。仏法のために戦う人は、三世永遠に妙法に包まれ、妙法と一体の当体となるからです。
 二乗、菩薩などによる法華守護を論ずるなかで、大聖人は、「成仏の法である妙法を行ずる人」、また、「妙法に背く謗法と戦う人」という「法華経の行者」観を提示されています。
 末法においては、法華経の行者の身においてのみ、妙法が現れているのです。方便品で明かされる「十界互具」も、寿量品で久遠実成の仏が説かれることによって指し示される「種子の妙法」も、法華経の行者の一身以外にあるのではありません。
 ゆえに大聖人は、「御義口伝」に、おいて「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」と仰せです。
 成仏の修行の明鏡となり、指標となる本尊は、法華経の行者の一身に拝することができるのです。
 ここに諸天の守護と法華経の行者をめぐる問題が「此の書の肝心・一期の大事」と言われるゆえんがあり、また「開目抄」が「人本尊開顕」の書と言われるゆえんがあるのです。

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