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日蓮大聖人・池田大作

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第八章 法華の深恩 悪世に法を弘める人を諸天が断じて守る

講義「開目抄」「一生成仏抄」(池田大作全集第34巻)

前後
10  菩薩・天・人に対する法華深恩
 次に、菩薩・天・人に対する法華経の深恩について論じられていきます。(御書207㌻)
 ここでも爾前経と法華経の相違を浮き彫りにしていますが、成仏の法としての法華経の教法がより鮮明に明らかにされていきます。すなわち、方便品の「十界互具」、寿量品の「久遠実成」の法門を取り上げられ、これによって成仏できた菩薩・天・人たちが、いかに法華経に深恩があるかを示されていきます。
 まず、大聖人は、爾前経において諸菩薩は釈尊の弟子ではなかったと言われています
 たとえば、華厳経の会座に集まった菩薩たちは、菩提樹下で初成道した釈尊の前に十方の仏土から現れた存在であり、釈尊の弟子ではありません。そして、彼らが説く法門以上の教えを、釈尊は爾前経で説くことはなかったと言われています。
 その菩薩たちが法華経では合掌して釈尊を敬い、「具足の道」を聞きたいと請います。
 大聖人は、「具足の道」とは十界互具の法理であり、南無妙法蓮華経にほかならないことを明かされます。
 「具とは十界互具・足と申すは一界に十界あれば当位に余界あり満足の義なり
 十界互具によって、十界各界に仏界を顕すことが実現し、万人平等の成仏が明確になります。方便品の「衆生をして仏知見を開か令めんと欲す」との「衆生」について、大聖人は、「衆生と申すは舎利弗・衆生と申すは一闡提・衆生と申すは九法界」と仰せられ、具足の法によって成仏できたのは、二乗の舎利弗だけでなく、一闡提も含めた九界の衆生すべてであることを明確にされています。
 そして、この万人成仏の道が開かれたことで釈尊の「衆生無辺誓願度」が成就し、あらゆる菩薩・諸天たちは、法華経の一念三千という無上の法門を初めて聞いたと領解したことが示されています。
 この時点でも、十分、菩薩たちにとって法華経は無上の教えとなるわけですが、さらに寿量品の久遠実成の法門によって、法華経の深恩は決定的になります。
 すなわち、寿量品で久遠実成が説かれることによって、諸経の諸仏は皆、釈尊の分身として位置づけられることが示される(御書214㌻)。ここにおいて、諸仏の弟子である菩薩たちも釈尊の弟子となります。
 このように寿量品では、久遠実成の仏に諸仏が統合され、久遠実成の釈尊こそが成仏を目指す一切の菩薩の師となるべき仏であることが明かされたのです。
 この久遠実成の仏は、「永遠の妙法」と一体の「永遠の仏」を指し示しています。この仏こそが、実在の人間である釈尊の本地であると説かれているのは、宇宙根源の法である永遠の妙法の力を人間生命の上に開きうることを示しているのです。
 仏とは、生命に永遠の妙法の力が開花した存在、すなわち妙法蓮華経です。この妙法蓮華経こそ仏の本体であり、本仏です。
 ここに釈尊の説いたとされる一切経の中では初めて法華経寿量品という形で、永遠の妙法が「成仏の種子」として顕現したのです。
 寿量品の仏は、仏の本体である妙法蓮華経を指し示しています。そして、この妙法蓮華経は、万人に内在する生命の法であり、万人の成仏の種子となるのです。
 成仏の種子が寿量品の文底に秘沈されているゆえに、寿量品こそ一切経の頂点なのです。ゆえに、大聖人は寿量品をこう讃えられています。
 「一切経の中に此の寿量品ましまさずば天に日月の・国に大王の・山河に珠の・人に神のなからんが・ごとくして・あるべき
 ここに、成仏を目指す一切の菩薩が法華経に深恩を感じるべきゆえんがあるのです。
11  「才能ある畜生」と喝破
 大聖人御在世当時の諸宗は、一切経の中では寿量品の仏こそが成仏の修行の本尊とすべき仏であることを知りません。知らないどころか、事実を隠し、ゆがめている宗派さえある。
 末法は、悪比丘が出来し正法を隠します。その結果、法華経の真実が見失われます。やがて、諸宗は本尊に迷います。
 大聖人は、当時の諸宗の本尊観・成仏観について、寿量品に説かれた成仏の種子を持つ根本の仏に迷っていることを厳しく破折されています。それは、王子が、国王である自分の親に迷い、王をさげすんだり、他人を王と思うようなものであると、分かりやすく教えられています。そして、寿量品の仏を知らない諸宗の者は父を知らない子のように「不知恩」であり、仏法を知っているように見えて、その実は「才能ある畜生」であると鋭く喝破されている。
 ともあれ、法華経を聞いて成仏した菩薩らは、法華経の行者を守るために、磁石が鉄を吸うように、月が水に映るように、たちまちのうちにやってきて仏の前で誓った守護の誓いを果たさなければならない。そうであるのに、なぜ、今まで大聖人を守るために出現しないのか。その結論として、「日蓮・法華経の行者にあらざるか」と、疑いをさらに強められていくのです。
 そして、「されば重ねて経文を勘えて我が身にあてて、身の失をしるべし」(同行)とまで仰せられ、”大いなる疑い”の第二の論述へと考察を引き継がれていきます。
12  本尊とは法華経の行者の一身の当体
 さて大聖人が第一の論述において、法華経で初めて成仏の法を知り、また成仏したとされる二乗、菩薩などの法華守護を論じられているのは、諸天善神の守護の働きは成仏の法である妙法の力によるからであると拝することができます。
 言い換えれば、元品の法性が諸天善神と現れるのです。であればこそ諸天善神は謗訟が充満する国土を見捨てて去ると言われる。しかしまた謗法の悪世にあっても、妙法を守り、妙法を弘めていく法華経の行者がいれば諸天善神がこの人を守るのです。
 どんな悪世でも、諸天善神は、仏法のために戦う人を草の根を分けても探し出し、断じて守護する。仏法のために戦う人は、三世永遠に妙法に包まれ、妙法と一体の当体となるからです。
 二乗、菩薩などによる法華守護を論ずるなかで、大聖人は、「成仏の法である妙法を行ずる人」、また、「妙法に背く謗法と戦う人」という「法華経の行者」観を提示されています。
 末法においては、法華経の行者の身においてのみ、妙法が現れているのです。方便品で明かされる「十界互具」も、寿量品で久遠実成の仏が説かれることによって指し示される「種子の妙法」も、法華経の行者の一身以外にあるのではありません。
 ゆえに大聖人は、「御義口伝」に、おいて「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」と仰せです。
 成仏の修行の明鏡となり、指標となる本尊は、法華経の行者の一身に拝することができるのです。
 ここに諸天の守護と法華経の行者をめぐる問題が「此の書の肝心・一期の大事」と言われるゆえんがあり、また「開目抄」が「人本尊開顕」の書と言われるゆえんがあるのです。

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