Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第七章 法華経の行者 忍難と慈悲に勝れたる正法の実践者

講義「開目抄」「一生成仏抄」(池田大作全集第34巻)

前後
11  忍難と慈悲の力で法を体現
 大聖人は、御自身の法華経の行者としての御境地を次のように述べられています。
 「されば日蓮が法華経の智解は天台・伝教には千万が一分も及ぶ事なけれども難を忍び慈悲のすぐれたる事は・をそれをも・いだきぬべし
 法華経に対する智解の深さは、仮に、天台・伝教のほうが勝っているとしても、「忍難」と「慈悲」においては、はるかに大聖人が勝っているとの仰せです。
 もちろん、末法の弘通にあっても、法華経に対する「智解」、すなわち道理を尽くして、理路整然たる教義の展開から語りゆくことは重要です。大聖人も、理論的解明の功績を天台・伝教に譲られることはあっても、その必要性を否定されているわけではありません。
 しかし、それ以上に重要なことがある。それは、悪世末法に現実に法を弘め、最も苦しんでいる人々を救い切っていく「忍難」と「慈悲」です。
 この「忍難」と「慈悲」は、表裏一体です。民衆救済の慈悲が深いからこそ、難を忍んで法を弘めていく力も勝れているのです。
 「難を忍び」とは、決して一方的な受け身の姿ではありません。末法は「悪」が強い時代です。その悪を破り、人々を目覚めさせる使命を自覚した人は、誰であれ、難と戦い続ける覚悟を必要とするからです。その根底には、末法の人々に謗法の道を歩ませではならないという厳父の慈悲があります。その厳愛の心こそが、末法の民衆救済に直結します。
12  願兼於業の悦びの信心
 慈悲は忍難の原動力であり、忍難は深き慈悲の証明です。そのことを示すために、大聖人は「願兼於業」の法理について言及されています。
 大聖人は、ここで、御自身が受けられている大難は、実は衆生を救う願いのために、あえて苦しみを受けていく菩薩の願兼於業と同じであるとされています。そして、菩薩が衆生の苦しみを代わりに受けていくことを喜びとしているように、大聖人も今、大難という苦しみを受けているが、悪道を脱する未来を思えば悦びである、と言われている
 願兼於業こそ悦びであるとの仰せは、本抄のいちばん最後の結論部分と一致します。
 「日蓮が流罪は今生の小苦なれば・なげかしからず、後生には大楽を・うくべければ大に悦ばし
 願兼於業とは、仏法における宿命転換論の結論です。端的に言えば、「宿命を使命に変える」生き方です。
 人生に起きたことには必ず意味がある。また、意味を見いだし、見つけていく。それが仏法者の生き方です。意味のないことはありません。どんな宿命も、必ず、深い意味があります。
 それは、単なる心のあり方という次元ではない。一念の変革から世界の変革が始まる。これは仏法の方程式です。宿命をも使命と変えていく強き一念は、現実の世界を大きく転換していくのです。その一念の変革によって、いかなる苦難も自身の生命を鍛え、作り上げていく悦びの源泉と変わっていく。悲哀をも創造の源泉としゆくところに、仏法者の生き方があるのです。
 その真髄の生き方を身をもって教えられているのが、日蓮大聖人の「法華経の行者」としての振る舞いにほかならない。
 「戦う心」が即「幸福」への直道です。
 戦うなかで、初めて生命は鍛えられ、真の創造的生命が築かれていきます。また、いかなる難があっても微動だにせぬ正法への信を貫いてこそ、三世永遠に幸福の軌道に乗ることができる。一生成仏とは、まさに、その軌道を今世の自分自身の人生のなかで確立することにほかなりません。
 「戦い続ける正法の実践者」こそが、大聖人が法華経を通して教えられている究極の人間像と拝したい。
 その境地に立てば、難こそが人間形成の真の基盤となる。「魔競はずは正法と知るべからず」と覚悟して忍難を貫く正法の実践者は、必ず妙法の体現者と現れる。そして「難来るを以て安楽と意得可きなり」、「大難来りなば強盛の信心弥弥いよいよ悦びをなすべし」という大境涯に生きていくことができるのです。
 大聖人は、この「開目抄」で、その御境地を門下に、また日本中の人に厳然と示されることによって、万人の無明の眼を開こうとされた。そして、法華経の行者の真髄の悦びを語られていると拝することができます。

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