Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第七章 法華経の行者 忍難と慈悲に勝れたる正法の実践者

講義「開目抄」「一生成仏抄」(池田大作全集第34巻)

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10  小失なくも度々難に遭う人
 大慢の者が正義の人を陥れる方法は、「讒言」です。対話や言論戦を避け、なおかつ、己の虚飾を満たすために、讒言・ウソという卑劣な手段を選択する。それも、こともあろうに、正義の人に「悪人」のレッテルをはり、中傷するのです。
 法華経勧持品には、僣聖増上慢が、国王・大臣や社会の有力者に向かって、法華経の行者についてのデマを捏造すると説かれます。また、涅槃経では外道が阿闍世王の所へ行き、釈尊が利益を貪り、呪術を用いたなどと、およそ正反対のデマを作り、仏を「大悪人」呼ばわりしたことが記されている。
 賢明な社会であれば、当然、そうしたウソを見破る指導者が出てきます。大聖人は、天台、伝教の時代は像法時代で、いろいろな難はあったが、最後は国主が是非を判断したゆえに、それ以上の迫害はなかったと仰せです。
 しかし、末法では、悪鬼入其身の僧らによって仏法をゆがめられた社会にあって、指導者には善悪を判断する能力も意志もなくなっていくゆえに大聖人に対して、国主らは「非理を前とし(中略)召し合せられずして」――道理に反した理不尽な政道を行い、公正な弁明の機会を与えることもなく、一方的に流罪・死罪に処して、迫害に及んだと言われています。
 民主主義の現代で言えば、”真実を見極められない国主”とは、ウソを容認してしまう社会、デマを傍観してしまう社会の存在に通じると言えます。
 いかなるウソやデマも、そのまま放置すれば、結局は、人々の心の中に沈殿して残ります。ですから、ウソやデマと戦えない社会は、必ず精神が衰退し、ゆがんでしまう。それゆえに、末法広宣流布は、人々の無明をはね返して、人々の精神の奥底を破壊する謗法を責めぬいていく、強く鋭い言論の戦いが絶対に重要となっていく。その戦いがあってこそ、社会に健全な精神を取り戻すことができるからです。
 デマ、讒言という一例をもって述べましたが、いずれにしても、転倒した社会にあって正義を叫ぶことは並大抵なことではありません。むしろ、真実を叫べば叫ぶほど、迫害の嵐は強まる。たとえば、人々が天動説を信じきっている社会の中で、ただ一人、地動説を唱えるようなものです。
 正義の人は、執拗で理不尽な迫害を受ける。また、それでこそ正義の人である。
 大聖人は、末法の法華経の行者の条件として、次のように述べられています。
 「小失なくとも大難に度度値う人をこそ滅後の法華経の行者とはしり候はめ
 法華経の行者には、何一つ失がなくとも、大難が押し寄せるのです。その様は、「開目抄」の「山に山をかさね波に波をたたみ難に難を加へ非に非をますべし」との仰せに示されて余りあります。
 このように大難が起こる構図をもとより承知のうえで、大聖人は法華経の行者として一人立たれた。そして二十年に及ぶ大闘争を経て、今、流罪地の佐渡にあっても正義を説かれ、獅子吼されているのです。
11  忍難と慈悲の力で法を体現
 大聖人は、御自身の法華経の行者としての御境地を次のように述べられています。
 「されば日蓮が法華経の智解は天台・伝教には千万が一分も及ぶ事なけれども難を忍び慈悲のすぐれたる事は・をそれをも・いだきぬべし
 法華経に対する智解の深さは、仮に、天台・伝教のほうが勝っているとしても、「忍難」と「慈悲」においては、はるかに大聖人が勝っているとの仰せです。
 もちろん、末法の弘通にあっても、法華経に対する「智解」、すなわち道理を尽くして、理路整然たる教義の展開から語りゆくことは重要です。大聖人も、理論的解明の功績を天台・伝教に譲られることはあっても、その必要性を否定されているわけではありません。
 しかし、それ以上に重要なことがある。それは、悪世末法に現実に法を弘め、最も苦しんでいる人々を救い切っていく「忍難」と「慈悲」です。
 この「忍難」と「慈悲」は、表裏一体です。民衆救済の慈悲が深いからこそ、難を忍んで法を弘めていく力も勝れているのです。
 「難を忍び」とは、決して一方的な受け身の姿ではありません。末法は「悪」が強い時代です。その悪を破り、人々を目覚めさせる使命を自覚した人は、誰であれ、難と戦い続ける覚悟を必要とするからです。その根底には、末法の人々に謗法の道を歩ませではならないという厳父の慈悲があります。その厳愛の心こそが、末法の民衆救済に直結します。
12  願兼於業の悦びの信心
 慈悲は忍難の原動力であり、忍難は深き慈悲の証明です。そのことを示すために、大聖人は「願兼於業」の法理について言及されています。
 大聖人は、ここで、御自身が受けられている大難は、実は衆生を救う願いのために、あえて苦しみを受けていく菩薩の願兼於業と同じであるとされています。そして、菩薩が衆生の苦しみを代わりに受けていくことを喜びとしているように、大聖人も今、大難という苦しみを受けているが、悪道を脱する未来を思えば悦びである、と言われている
 願兼於業こそ悦びであるとの仰せは、本抄のいちばん最後の結論部分と一致します。
 「日蓮が流罪は今生の小苦なれば・なげかしからず、後生には大楽を・うくべければ大に悦ばし
 願兼於業とは、仏法における宿命転換論の結論です。端的に言えば、「宿命を使命に変える」生き方です。
 人生に起きたことには必ず意味がある。また、意味を見いだし、見つけていく。それが仏法者の生き方です。意味のないことはありません。どんな宿命も、必ず、深い意味があります。
 それは、単なる心のあり方という次元ではない。一念の変革から世界の変革が始まる。これは仏法の方程式です。宿命をも使命と変えていく強き一念は、現実の世界を大きく転換していくのです。その一念の変革によって、いかなる苦難も自身の生命を鍛え、作り上げていく悦びの源泉と変わっていく。悲哀をも創造の源泉としゆくところに、仏法者の生き方があるのです。
 その真髄の生き方を身をもって教えられているのが、日蓮大聖人の「法華経の行者」としての振る舞いにほかならない。
 「戦う心」が即「幸福」への直道です。
 戦うなかで、初めて生命は鍛えられ、真の創造的生命が築かれていきます。また、いかなる難があっても微動だにせぬ正法への信を貫いてこそ、三世永遠に幸福の軌道に乗ることができる。一生成仏とは、まさに、その軌道を今世の自分自身の人生のなかで確立することにほかなりません。
 「戦い続ける正法の実践者」こそが、大聖人が法華経を通して教えられている究極の人間像と拝したい。
 その境地に立てば、難こそが人間形成の真の基盤となる。「魔競はずは正法と知るべからず」と覚悟して忍難を貫く正法の実践者は、必ず妙法の体現者と現れる。そして「難来るを以て安楽と意得可きなり」、「大難来りなば強盛の信心弥弥いよいよ悦びをなすべし」という大境涯に生きていくことができるのです。
 大聖人は、この「開目抄」で、その御境地を門下に、また日本中の人に厳然と示されることによって、万人の無明の眼を開こうとされた。そして、法華経の行者の真髄の悦びを語られていると拝することができます。

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