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日蓮大聖人・池田大作

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第一章 「開目」 大聖人に目を開け! 民衆に目を開け!

講義「開目抄」「一生成仏抄」(池田大作全集第34巻)

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7  忍難・慈悲に目を開け
 関連して、御文をもう一つ拝したい。
 「されば日蓮が法華経の智解は天台・伝教には千万が一分も及ぶ事なけれども難を忍び慈悲のすぐれたる事は・をそれをも・いだきぬべし
 多くの同志の心に刻まれているこの御文もまた、「大聖人に目を開け」と呼びかけられている御文であると拝することができます。
 ここで大聖人は法華経の智解については天台等よりも劣ると御謙遜されているが、先に述べたように、末法の一切衆生の成仏を実現する要法を把握されるという最高の智慧を本抄では示されている。
 しかし、この要法は衆生一人一人の一念において十界互具・仏界涌現を実現するための究極の法であり、説明することはもとより難しいが、衆生一人一人に弘め、実現していくことは、さらに困難なのです。
 それは前人未到の戦いであり、時代は悪世、法は難信の要法、そして弘める人の姿は凡夫であるゆえに、大難は必定なのです。そこで、大聖人は、相次ぐ大難に耐えられながら、仏界の生命を凡夫のわが身に開き顕していかれた。その大聖人の生き方・実践を手本として提示し、万人に弘めていく方途を確立されたのです。
 その戦いを貫き、完遂された原動力は「誓願」です。そして、そのさらなる根底には一切衆生への大慈悲があられた。この大慈悲こそ、私たちが大聖人を「末法の御本仏」と拝するゆえんなのです。
 大聖人御自身も、末法の一人一人の人間を根底から救う折伏の戦いの本質は慈悲であるとして「日蓮は日本国の諸人にしうし主師父母なり」と仰せられています。これは「開目抄」の結論であり、「大聖人の慈悲に目を開け」との呼びかけであると拝することができます。
 戸田先生は、「開目抄」の御文を引きながら、万人の成仏、全人類の境涯変革こそが「如来事」(如来の仕事)であるとして、その実践を同志に向かって呼びかけられています。
 「全人類を仏にする、全人類の人格を最高価値のものとする。これが『如来の事』を行ずることであります。
 大聖人が開目抄に、『日蓮が法華経の智解は天台・伝教には千万が一分も及ぶ事なけれども難を忍び慈悲のすぐれたる事は・をそれをも・いだきぬべし』と仰せられた深意は、一切衆生をして仏の境涯をえさせようと、一生をかけられた大聖人のご心中であります。
 これこそ目の前に見た『如来の事』であります。学会のみなさまよ、われわれも『如来の事』を行わなくてはなりませぬ。しからば、いかにして全人類に仏の境涯を把持いたさせましょうか」(「戸田城聖全集」1)
 大聖人は万人の成仏、全人類の境涯変革を目指し、法体の確立・流布のために忍難・慈悲の力を現されました。学会は、この大聖人の御精神を受けて、牧口初代会長の時代より、大聖人の仏法を現実変革の法として受け止め、民衆救済の戦いに邁進してきたのです。
8  根底は民衆への慈悲と信頼
 題名の「開目」の意義は、以上のように重層的に拝することができますが、「大聖人に目を開け」ということが基調になっていると言えます。そして、その根底には、さらに民衆への慈悲と信頼がある。それは「民衆に目を開け」と、表現できるものです。
 大聖人の仏法は「師弟不二の仏法」です。大聖人は御自身が身をもって確立した末代凡夫の即身成仏の道を、弟子たちにも勧められています。
 「我並びに我が弟子・諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし、天の加護なき事を疑はざれ現世の安穏ならざる事をなげかざれ、我が弟子に朝夕教えしかども・疑いを・をこして皆すてけんつたなき者のならひは約束せし事を・まことの時はわするるなるべし
 ここでは、無疑自信・不惜身命の「信」を同じくすることをもって、大聖人と弟子たちとの師弟不二の道とされています。この「信」には、「疑い」を退けていることから明らかなように、生命に潜む魔性や外からの悪縁となる障魔との闘争が含まれていることは言うまでもありません。
 そして、大聖人の戦いに連なっていけば「成仏」の果も間違いないと保証されております。いかなる人も、因行・果徳ともに大聖人と不二になれるからです。
 このことは、本抄に一貫して拝することができる「大聖人に目を開け」という呼びかけが、実は人間・民衆への深い信頼の上に成り立っていることを意味しているのです。
 そこで私は、本抄の「開目」の意義として「大聖人に目を開け」の呼びかけとともに、「人間に目を開け」「民衆に目を開け」との熱い呼びかけがあることを明言しておきたいと思います。
9  万人の仏性を開く「開目の連帯」
 結論して言えば、「開目抄」を拝することは、日蓮大聖人を末法の成仏の「手本」とし、成仏の道を確立した「末法の教主」として正しく拝することにほかならない。また、文底の民衆仏法の眼から拝せば、「開目抄」を拝することは、「人間への信頼」に立つことであると言えます。
 そう拝した時、「開目抄」を真に正しく拝読した者がいずこにいるのか。あらためて、戸田先生の慧眼が光を放つと言えるでしょう。講義の第一章を結ぶにあたって、恩師戸田先生の次の一節を紹介しておきたい。
 「私が大聖人様の御書を拝読したてまつるにさいしては、大聖人様のおことばの語句をわかろうとするよりは、御仏の偉大なるご慈悲、偉大なる確信、熱烈なる大衆救護のご精神、ひたぶるな広宣流布への尊厳なる意気にふれんことをねがうものである。
 私の胸には御書を拝読するたびに、真夏の昼の太陽のごとき赫々たるお心がつきさされてくるのである。熱鉄の巨大なる鉄丸が胸いっぱいに押しつめられた感じであり、ときには、熱湯のふき上がる思いをなし、大瀑布が地をもゆるがして、自分の身の上にふりそそがれる思いもするのである」(「謹んで開目抄の一節を拝したてまつる」、『戸田城聖全集』3)
 この戸田先生の拝読の御精神こそが、創価学会の御書拝読の永遠の指針であると確信する。御書を拝することは、民衆救済の大慈悲と哲理に触れることであり、日蓮大聖人の広宣流布の御精神に浴することに通じます。
 私たちも、地涌の勇者として、全人類の無明の目を開き、万人の仏性を開く「開目の連帯」を築いていきたい。今、世界中で、日蓮大聖人の人間主義の仏法を待望しています。私たちの平和と文化と教育の大運動を見つめています。

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