Nichiren・Ikeda
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「久遠の誓願」果たし「本有の生死」を悠…
講義「御書の世界」(下)(池田大作全集第33巻)
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7 広布の戦いのなかに「本有の生死」
池田 大聖人は「不老は釈尊不死は地涌の類たり」と仰せです。法華経薬王品「病即消滅不老不死」の経文についての「御義口伝」です。地涌の菩薩を「不死」に配されていることが重要です。
地涌の菩薩は、永遠の妙法を生命に所持、それを弘めていくために戦う無数の菩薩です。その地涌の菩薩こそ「不死」であるというのです。
地涌の使命に生きぬいてこそ、生老病死の生命に常楽我浄が香ることになる。苦悩の生死の連鎖を断ち切ることができます。
妙法に生き、妙法に死すことが「本有の生死」です。
大聖人は、「妙は死法は生」と仰せです。また、「此の法華経は生死生死と転りたり」、また「自身法性の大地を生死生死と転ぐり行くなり」とも仰せです。
「永遠の妙法」そのものに「生死」は含まれているのです。あらゆる生命の生死、あらゆる現象の起滅は妙法の生であり、妙法の死である。
生命は究極するところ永遠であるが、生死の繰り返しは誰人も避けることはできない。
その生死を六道輪廻の苦悩の繰り返しとするのか、常楽我浄の四徳香る「妙法の生死」「本有の生死」にするのか。
万人の生老病死の苦しみを、常楽我浄の大安楽に転ずる道を開いてくださったのが、日蓮大聖人です。
斉藤 生老病死の苦しみをどう逃れるか。通途の仏教では苦悩を忌み、離れることを強調していました。「出離生死」という表現に、端的にそれが示されています。
池田 日蓮大聖人は、私たちの生老病死の生命そのものが、永遠の大法である南無妙法蓮華経と一体の「宝塔」であると教えられています。
妙法を持つ私たちの生命の「宝塔」においては、前にも言ったように、生老病死の四苦は、常楽我浄の四徳となり、人生に四徳の霞郁たる香りを放つことができるのです。
常楽我浄の四徳です。仏が悟った生命の永遠性(常)、崩れぬ安楽の境地(楽)、確固たる主体性(我)、完全な清らかさ(浄)を、私たちの生老病死の生命のうえに顕していくことができます。
森中 「生も歓喜、死も歓喜」の境涯ですね。
斉藤 大事な点は、どこまでも現実の生老病死を離れないということですね。従来の宗教は、永遠性を求める時、どうしても私たちの現実を離れたところに楽園を設定していました。日蓮仏法は、生老病死の現実からどこまでも離れずに、大歓喜へと変革しゆく道を示されていきます。
池田 「御義口伝」にこう説かれています。
「生死を見て、嫌い離れるのを迷いといい、始覚というのである。一方、本有の生死と知見するのを悟りといい、本覚というのである。今、日蓮と門下が南無妙法蓮華経と唱え奉るとき、本有の生死であり、本有の退出であると悟るのである」
まさに、三世永遠にわたる自由自在の大境涯です。生も死も仏界の寂光の大空を飛朔していく大歓喜の境涯です。
仏界の生死であれば、自分が生まれたいところに、生まれたい時に、生まれたい姿で生まれることができる。
死もまた自在です。亡くなっても、「須臾の間に」つまり「たちまちに」現実世界に還ってきて、衆生利益の戦いを開始すると大聖人が仰せです。
森中 そう考えると、臨終の時に「また、すぐ広布の陣列に戻ってくるから」「ああ、大満足だった。一点の悔いもない」「さあ、次はあの国で広宣流布したいな」等と言って亡くなる創価学会員一人一人の境涯は、まさに「本有の生死」の姿を体現していると言えますね。
斉藤 学会とともに生きぬいた方々は、みずからの生命の実感として「本有の生死」を間違いなくつかんでおられます。
池田 戸田先生は、信心をすると三世の生命が分かるようになると、よく言われていた。私は深く深く思索すべき言葉と思ってきました。
末法の悟達は「不惜身命の信心」に徹することです。
そのなかで、自分の生命の境地として、「本有の生死」を確かな実感として会得できるのではないだろうか。臨終を目前とした学会員の方々の悠然たる境地は、わが生命に三世の生命を自得しているからこそです。
何の悔いもなく、大満足で死を迎えることができる学会員の境涯がいかに崇高か。草の根の庶民が「生死不二の達人」となっている事実が、いかに尊極なことか。
8 師弟不二の広布大願
斉藤 広宣流布の大願、民衆救済の闘争に生きぬくところに「本有の生死」を実感する境涯が開かれることが分かりました。
池田 その「大願」と「戦う心」を師と弟子が同じくしていくことが大聖人の仏法における師弟不二です。
師匠は「大願」と「戦う心」に貫かれた完結した人生を弟子に示すことによって、弟子の規範となり、拠り所となります。
法華経に説かれる釈尊の振る舞い、そして日蓮大聖人の御生涯の御振る舞いも、そのような師の在り方を示されていると拝したい。
弟子も、同じ「大願」と「戦う心」とを貫くことによって、師弟不二を実現します。その生き方のなかに、仏と同じ常楽我浄の境涯が開かれるのです。これが「仏界の生死」であり、「本有の生死」です。
斉藤 広宣流布の戦いのなかにこそ、永遠の妙法に基づいて生きる仏と同じ生き方が開かれてくるということですね。広宣流布へ戦いぬく創価学会の師弟においても同じことが言えるのではないでしょうか。
池田 戸田先生はつねに、「死身弘法」の実践で現代の広宣流布の端緒を開かれた牧口先生を思われながら、行動されていた。
晩年、しみじみと「牧口先生がいないと寂しい。牧口先生のもとに還りたい」と言われていました。
私もまた、戸田先生が存命中も、亡くなられてからも、今も、つねに戸田先生との「師弟不二の大道」を歩み通してきたつもりです。それが私の人生最高の誇りです。
「師弟」に徹することが、三世永遠の不滅の境涯を得る道です。師弟の大道こそ、何ものにも勝る「人間の宗教」の本質です。
法華経は諸経典で唯一、「師弟不二の経典」です。
日蓮仏法は世界の宗教で唯一、一切衆生を仏にしゆく「師弟不二の宗教」です。
そして、創価学会の実践のなかには、「師弟不二の大道」があります。
人類の境涯を高め、この地球上の一人一人が師子王となっていく創価学会の「師弟不二の行動」が、二十一世紀の「人間主義の宗教」のパイオニア(先駆者)として不滅の輝きを放っていくことは間違いありません。