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日蓮大聖人・池田大作

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善性を促す仏法者の「振る舞い」  

講義「御書の世界」(下)(池田大作全集第33巻)

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13  池田 それに対する御返事が、「四信五品抄」とされているね。十大部の一つで、末法における法華経の修行のあり方を示された重書です。
 森中 同抄では、釈尊の滅後、悪世末法において、妙法を初めて信受する名字即の位の人には、無量の功徳があると示されています。
 斎藤 同抄では、形の上で「戒を持つ」ことは必要ではないことを諄々と説き示されています。
 当時、戒律復興運動が隆盛していました。常忍が肉食などを気にしていたのは、さまざまな出来事の中で、心が弱くなり、ついつい世間の風潮に流されていたからかも知れません。
 池田 それに対して、大聖人は、「解無くして但一口に南無妙法蓮華経と称する其の位」は天子が襁褓(産着)をまとっているようなものであり、"爾前諸経のあらゆる修行者にも超え、諸宗の元祖にも勝る者である"と宣言され、「国中の諸人我が末弟等を軽ずる事勿れ」と訴えられている。さらには「我が門人等は福過十号疑い無き者なり」と、仏にも勝る大福徳の人である、と励まされている。
 大事なのは、"形"ではなく、"心"である――そう教えられているのです。
 法性を根本として、善に生きる方向を確立した人は、たとえ一介の庶民であったとしても最高に尊い。逆に、それができていない人は、たとえ諸宗の元祖であっても、位ははるかに低い。
 非常に大切な人間尊厳観です。「創価の人間主義」はこの人間尊厳観に基づいているのです。
 森中 大聖人は「人の心かたければ神のまほり必ずつよし」とも仰せです。信心強盛な人をこそ、諸天善神もしっかり守る。
 逆に、弱気は、不信につながり、福運を消してしまう。諸御抄に「臆病にては叶うべからず」(840,1917,1282㌻)と仰せのとおりです。
14  池田 仏道修行は、徹して悪との戦いです。無限の挑戦です。一歩も退くことなく、前進また前進です。弱々しい心では、魔に食い破られてしまう。
 世のはかなさを哀れんで、現実から逃避するために出家するのは、偽物の仏法者である。自分一人の悲哀を乗り越えられない者が、どうして万人の苦悩を解決する仏道を全うすることなどできようか。民衆の真っ只中にあって、自身もその一人として苦悩しながら、幸福への道を切り拓いていきなさい――大聖人はそう正しい生き方を示された、と拝したい。
 ここで再び、「賢きを人と云いはかなきを畜といふ」の一節に戻りたい。
 自他ともの仏性の顕現のために生きる以上の「賢さ」はない。反対に、自他ともに無明を強めていけば「畜生」と同じになる。
 ガンジーはこう述べています。
 「暴力が獣の法則であるように、非暴力は人類の法則である。非暴力の精神は、獣の中では眠っている。そして、獣は肉体的力以外の法則を知らない。人間の尊厳は、より高い法則、つまり精神的力への服従を要求する」(『私にとっての宗教』訳者代表・竹内啓二、新評論)
 森中 人間を、けものと区別するのは、精神的高さにおいて、けものに勝ろうとする絶え間ない努力が必要だということですね。
 斎藤 まさにそうです。十界論で見ても、「人界」を維持することは、本人の絶えざる努力が不可欠です。
 自分に勝ち続ける努力なしには人界を維持することはできません。人間が人間であることを放棄すれば、たやすく三悪道・四悪趣に堕ちてしまう。だから、常に人間であり続けようと仏道修行に励む。これこそが最高の「戒」になるのではないでしょうか。
 池田 大聖人は、こう仰せられています。
 「すべからく心を一にして南無妙法蓮華経と我も唱へ他をも勧んのみこそ今生人界の思出なるべき
 自他の仏性を信じ、ともに開き顕現して、馥郁たる妙法蓮華の花を咲かせていく。それ以上の人界の思い出はありません。
 仏性を自らの意志で開発することこそ、人界の最高の性分です。人間として生まれて、その最大の栄誉も果たせないまま、無明に覆われ三悪道・四悪趣に堕ちてしまえば、これ以上の損失はありません。
 「いまや人類は『分かれ道』に立っています。
 ガンジーが言うとおり、暴力という『ジャングルの掟』か、それとも非暴力という『人類の法』か、どちらかを選ばなければなりません」
 自他の仏性を信じ、非暴力の文明を築きあげていくか。それとも、自他ともに無明に覆われた暴力の野蛮を選ぶか。
 まさに、今、人類全体が岐路に立たされている。その地球規模の平和への選択に貢献する道こそ、仏法の「人の振る舞い」の大道であることを私は確信しています。

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