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日蓮大聖人・池田大作

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善性を促す仏法者の「振る舞い」  

講義「御書の世界」(下)(池田大作全集第33巻)

前後
12  金吾・常忍の出家の願い
 池田 最後に、四条金吾や富木常忍が出家を願ったのに対して、大聖人は出家を思いとどまらせている。この点にも注目しておきたい。人間尊敬の問題は、心の問題であって、出家・在家の形態の問題ではないからです。
 斎藤 先ほどもあったように、四条金吾が、苦境へと陥っていた時です。建治2年7月頃には、よほど思い詰めたのか、引退して仏道に励む「入道」を考えていたようです。
 森中 大聖人は、四条金吾に対して、次のように仰せです。
 「おもひのままに入道にもなりておはせば・さきさきならばくるしからず、又身にも心にもあはぬ事あまた出来せば・なかなか悪縁・度度・来るべし、このごろは女は尼になりて人をはかり男は入道になりて大悪をつくるなり、ゆめゆめ・あるべからぬ事なり」と仰せです。
 <通解>――思いのままに入道にもなってしまうことは、先々のことであれば、よいでしょう。とはいえ、身にも心にも沿わぬことが、多く出てくれば、(出家・入道しても)かえって(仏道を妨げる)悪縁が度々、起こり来るにちがいない。このごろは、女は尼となって人を騙し、男は入道になって大悪を作っている。決して、そうあってはならない。
 池田 大聖人は、弱気になっている金吾に対して、入道することを賛成されなかった。形から入っても、心が変わらなければ、何も解決しないからです。肝心の心が鍛えられていなけば、形だけ髪を下ろし法衣を着ても、ついつい悪行を積み重ねてしまう。自身が変わらなければ、同じ失敗を繰り返す。
 大切なのは、弱い自分をしっかり見つめ、決して逃げることなく、真正面から戦い、なにものにも紛動されない確固たる自身を確立することです。悪と戦い、悪を打ち破り、宿命転換して、強い信心を確立することです。
 その一方で、大聖人は「殿は日蓮が功徳をたすけたる人なり・悪人にやぶらるる事かたし」と大激励されている。
 金吾は、竜の口の頸の座に同行し殉教しようとした強信者である。また、師の正義を訴え戦う人であった。その功徳は誰人も決して破ることはできない――そう御断言です。
 人生には、浮き沈みがある。しかし、妙法に生き抜いて生命の奥底に積み重ねた功徳は、どんな時にも不滅です。大変な時こそ、この真実を深く確信して、粘り強く戦い抜くのです。
 苦難が生命を鍛え磨き、必ず福徳が光り輝いてくる。どんな立派な宝石も、原石のままで磨かなければ、光り輝かない。それと同じです。
 森中 金吾は短気な人でしたが、大聖人に度々、激励を受け、粘り強く戦いました。
 そして、ついには、主君の信頼を回復し、所領も増加し、鎌倉中の人々から賞賛を受けるようになりました。
 斎藤 富木常忍が出家を願った時にも、大聖人は同様に戒められています。
 常忍はすでに半僧半俗の入道でしたが、文永末から建治にかけて、金吾が苦労していたのと同時期に、富木常忍にも、身近にさまざまな悲しみが起こり、世の無常を感じていったようです。
 森中 主君の死、母の死、妻の病気などが重なりました。それで本格的な出家を願うようになったようです。
 斎藤 富木常忍は、建治3年(1277年)3月、大聖人に御手紙を送り、出家の願望を述べます。「不審状」と呼ばれるものです。
 その中で、自身の宿業を深く感じ、大聖人から遠く離れて暮らす自身を嘆き、大聖人のお側に仕えて仏道修行に専念したい、との願いを記しました。とともに、肉食の後に行水して読経することの可否など、修行の形の上で不審な点を確認しています。
13  池田 それに対する御返事が、「四信五品抄」とされているね。十大部の一つで、末法における法華経の修行のあり方を示された重書です。
 森中 同抄では、釈尊の滅後、悪世末法において、妙法を初めて信受する名字即の位の人には、無量の功徳があると示されています。
 斎藤 同抄では、形の上で「戒を持つ」ことは必要ではないことを諄々と説き示されています。
 当時、戒律復興運動が隆盛していました。常忍が肉食などを気にしていたのは、さまざまな出来事の中で、心が弱くなり、ついつい世間の風潮に流されていたからかも知れません。
 池田 それに対して、大聖人は、「解無くして但一口に南無妙法蓮華経と称する其の位」は天子が襁褓(産着)をまとっているようなものであり、"爾前諸経のあらゆる修行者にも超え、諸宗の元祖にも勝る者である"と宣言され、「国中の諸人我が末弟等を軽ずる事勿れ」と訴えられている。さらには「我が門人等は福過十号疑い無き者なり」と、仏にも勝る大福徳の人である、と励まされている。
 大事なのは、"形"ではなく、"心"である――そう教えられているのです。
 法性を根本として、善に生きる方向を確立した人は、たとえ一介の庶民であったとしても最高に尊い。逆に、それができていない人は、たとえ諸宗の元祖であっても、位ははるかに低い。
 非常に大切な人間尊厳観です。「創価の人間主義」はこの人間尊厳観に基づいているのです。
 森中 大聖人は「人の心かたければ神のまほり必ずつよし」とも仰せです。信心強盛な人をこそ、諸天善神もしっかり守る。
 逆に、弱気は、不信につながり、福運を消してしまう。諸御抄に「臆病にては叶うべからず」(840,1917,1282㌻)と仰せのとおりです。
14  池田 仏道修行は、徹して悪との戦いです。無限の挑戦です。一歩も退くことなく、前進また前進です。弱々しい心では、魔に食い破られてしまう。
 世のはかなさを哀れんで、現実から逃避するために出家するのは、偽物の仏法者である。自分一人の悲哀を乗り越えられない者が、どうして万人の苦悩を解決する仏道を全うすることなどできようか。民衆の真っ只中にあって、自身もその一人として苦悩しながら、幸福への道を切り拓いていきなさい――大聖人はそう正しい生き方を示された、と拝したい。
 ここで再び、「賢きを人と云いはかなきを畜といふ」の一節に戻りたい。
 自他ともの仏性の顕現のために生きる以上の「賢さ」はない。反対に、自他ともに無明を強めていけば「畜生」と同じになる。
 ガンジーはこう述べています。
 「暴力が獣の法則であるように、非暴力は人類の法則である。非暴力の精神は、獣の中では眠っている。そして、獣は肉体的力以外の法則を知らない。人間の尊厳は、より高い法則、つまり精神的力への服従を要求する」(『私にとっての宗教』訳者代表・竹内啓二、新評論)
 森中 人間を、けものと区別するのは、精神的高さにおいて、けものに勝ろうとする絶え間ない努力が必要だということですね。
 斎藤 まさにそうです。十界論で見ても、「人界」を維持することは、本人の絶えざる努力が不可欠です。
 自分に勝ち続ける努力なしには人界を維持することはできません。人間が人間であることを放棄すれば、たやすく三悪道・四悪趣に堕ちてしまう。だから、常に人間であり続けようと仏道修行に励む。これこそが最高の「戒」になるのではないでしょうか。
 池田 大聖人は、こう仰せられています。
 「すべからく心を一にして南無妙法蓮華経と我も唱へ他をも勧んのみこそ今生人界の思出なるべき
 自他の仏性を信じ、ともに開き顕現して、馥郁たる妙法蓮華の花を咲かせていく。それ以上の人界の思い出はありません。
 仏性を自らの意志で開発することこそ、人界の最高の性分です。人間として生まれて、その最大の栄誉も果たせないまま、無明に覆われ三悪道・四悪趣に堕ちてしまえば、これ以上の損失はありません。
 「いまや人類は『分かれ道』に立っています。
 ガンジーが言うとおり、暴力という『ジャングルの掟』か、それとも非暴力という『人類の法』か、どちらかを選ばなければなりません」
 自他の仏性を信じ、非暴力の文明を築きあげていくか。それとも、自他ともに無明に覆われた暴力の野蛮を選ぶか。
 まさに、今、人類全体が岐路に立たされている。その地球規模の平和への選択に貢献する道こそ、仏法の「人の振る舞い」の大道であることを私は確信しています。

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