Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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難即成仏と発迹顕本――苦難が人間本来の…  

講義「御書の世界」(上)(池田大作全集第32巻)

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13  発迹顕本
 斎藤 詳細は別の機会に譲るとして、この竜の口の法難こそ、日蓮大聖人の御一代で「発迹顕本」という最重要の意義があることを確認しておかなければなりません。
 大聖人御自身、翌年二月、佐渡で御認めの「開目抄」で次のように仰せられています。
 「日蓮といゐし者は去年九月十二日子丑の時に頸はねられぬ、此れは魂魄・佐土の国にいたりて返年の二月・雪中にしるして有縁の弟子へをくれば……」
 〈通解〉――日蓮と名乗った者は、去年の九月十二日深夜、子丑の時に頸をはねられた。これは、魂魄が佐渡の国に至って、明けて二月、雪の中で記し、縁ある弟子に送るのであるから……。
 池田 ここで、実際に頸をはねられたわけではないのに、「頸をはねられた」と仰せられているのは、それ以前のご自身は竜の口の刑場で終わったという表現です。分かりやすく言えば、新しい自分に生まれ変わったということです。
 また、次の「魂魄・佐土の国にいたりて」の「魂魄」とは、その新しいご自身のことです。竜の口法難で顕になった大聖人の御内証を言われたものです。
 そして、この一節こそが大聖人御自身の発迹顕本をあらわす仰せであると拝されます。
 森中 「発迹顕本」とは、仏が垂迹の姿(仮の姿)を開いて本地(本来の境地)を顕すことです。「迹」とは、影、跡の意味です。
 もともとは法華経で説かれる迹門の仏(迹仏)すなわち始成正覚の仏と、本門の仏(本仏)すなわち久遠実成の仏を対比して天台大師が説明した言葉です。天台は、始成正覚の釈尊は迹であり、久遠実成の仏こそ釈尊の本地であるとし「発迹顕本(迹を発いて本を顕す)」と説明しました。
 言わば、天空に浮かぶ月の本体そのものが「本地」で、水面に映った月影が「迹」であるとたとえられています。
 池田 その天台大師の「発迹顕本」の考え方を、日蓮大聖人の仏法でも用いるようになったのです。
 日寛上人は、この「開目抄」の一節を次のように解説しています。
 「この文の元意は、蓮祖大聖は名字凡夫の御身の当体、全くこれ久遠元初の自受用身と成り給い、内証真身の成道を唱え、末法下種の本仏と顕れたまう明文なり」(日寛上人文段集192㌻)
 つまり、日蓮大聖人が竜の口の法難の時に、名字凡夫という迹を開いて、凡夫の身のままで久遠元初自受用報身如来という本地を顕されたことをいいます。
 言い換えれば、凡夫の身のままで、宇宙本源の法である永遠の妙法と一体の「永遠の如来」を顕すということです。
 この発迹顕本以後、大聖人は末法の御本仏としての御立場に立たれます。すなわち、末法の御本仏として、万人が根本として尊敬し、自身の根源として信じていくべき曼荼羅御本尊を御図顕されていきます。
 また、ここで注意しなければいけないのは、「発迹」の「迹を発(ひら)く」という意味です。「発」は「開く」ことです。
 斎藤 ここが誤解されやすい所ですね。
 「迹を発(ひら)く」からといって、何か別者になるというわけではないということですね。確かに、表面的な姿を見れば、「迹」と「本」では天地雲泥の違いはあります。そこにだけ注目すると、全く別物に見がちです。
 池田 どこまでも凡身の上に、自受用身の生命が顕現していくのです。ここを見誤ると、成仏とは、人間を離れた超越的な存在になることだという誤解が生じる。
 日蓮大聖人も凡夫の身を捨てられたわけではない。しかし、凡夫の身そのものに久遠の仏の生命が赫々と顕れている。
 もう一つ、大事なことを言いたい。それは、この原理は私たちにとっても同じである、ということです。苦難を超えて、信心を貫き、広宣流布に生き抜く人は、発迹顕本して、凡夫の身のままで、胸中に大聖人と同じ仏の生命を涌現することができるのです。
 日寛上人は次のように仰せです。
 「我等この本尊を信受し、南無妙法蓮華経と唱え奉れば、我が身即ち一念三千の本尊、蓮祖聖人なり」(文段集548㌻)
 「人の本尊を証得して、我が身全く蓮祖大聖人と顕るるなり」「法の本尊を証得して、我が身全く本門戒壇の本尊と顕るるなり」(同683㌻)
 ありがたい仏法だ。超越的な別な理想人格がゴールだったら、私たちは今世で幸福になることはありえなくなる。
 森中 仏に成れたはいいが、すでにこの現実世界を離れてのことだったり、自分自身が別な人格になってから成仏するのでは、末法の凡夫にとっては何の魅力も感じません。
 池田 末法の全人類にとって成仏の指標を示し、その方途を示されたからこそ、日蓮大聖人は末法の御本仏なのです。
 森中 日蓮大聖人が発迹顕本されて、その御生命を御本尊に御図顕されたおかげで、私たちは御本尊を拝していけるわけですね。御本尊を明鏡として、私たちも発迹顕本していける。そう考えると竜の口の発迹顕本は、きわめて重要な出来事と言えます。
14  池田 私たちの一生成仏の手本を、大聖人が身をもって示してくださったのです。いかなる苦難も超えて、無明を打ち破り、法性を現していく自分を確立することが発迹顕本です。大難を受けるほど、仏界の生命は輝きわたっていく。そういう自分を確立することが、一生成仏の道です。
 真の意味の人間性の錬磨は、難を乗り越える信心の中にあるのです。
 森中 凡夫は、どうしても難を乗り越えるというよりも、難を避けていこうとする生き方が出てしまいます。ぎりぎりの状態になっても、何か余所に方法があるのではないかと考えてしまう(笑い)。
 あっちへ行って、こっちへ行って、それで、もうどうしようもないという状態にたどり着いて、はじめて腹が据わります(笑い)。
 池田 そこに壮年部と婦人部の違いがあるかもしれないね(笑い)。
 最後は御本尊の前に座れるんだから、それもいいが、最後に座るんだったら最初から座ったほうが早い。真一文字に御本尊に直結していく。それが凡夫が仏にやすやすとなる道だし、信心です。
 「夫信心と申すは別にはこれなく候、妻のをとこをおしむが如くをとこの妻に命をすつるが如く、親の子をすてざるが如く・子の母にはなれざるが如くに、法華経釈迦多宝・十方の諸仏菩薩・諸天善神等に信を入れ奉りて南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを信心とは申し候なり」と仰せのとおりです。
 「正直捨方便・不受余経一偈」です。
 凡夫にどうしても生じる、「迷いがちの心」。その迷いの心をすっきりと断ち切れるかどうかです。「正直」にとは、竹を割るように「潔く」という意味です。
 信心が深まってから難に向かうのではありません。難に向かっていくなかに生命が鍛えられ、金剛の信心が築かれていくのです。どんな悩みも、そのまま御本尊に祈っていけばいいのです。題目をあげることで悩みを乗り越えていくことができる。
 微妙な順番の違いかもしれないけれど、行動に現れるかどうかは決定的な違いです。
 それぞれの使命の人生に苦難は必ずあります。しかし、心さえ確かであれば、乗り越えられない困難はありません。打ち勝てない試練はありません。人間にはもともと、はかりしれない力がそなわっています。それが久遠元初自受用身の力だ。だから、戦えば戦うほど、自分自身の力が引き出せる。信心は、その秘宝を引き出す力です。大難があれば、即悟達に通じる。大難が即成仏を決定づける。
 大聖人は、一つ一つの大難を自らが乗り越えられることで、門下にその生き方を教えられたと拝したい。そして、その究極の生き方を、四条金吾に対して、まざまざと指南されたのが、竜の口の法難であったとも言える。弟子のためであり、未来のためです。
 金吾もまた、迷いの心がなかった。だから、師弟ともに仏果に至ったのです。竜の口が寂光土になったのです。
 捨てるべき迹とは「弱気」です。「臆病の心」です。大聖人は、「勇気」の本地の御姿を示すことで、発迹顕本の御姿を万人に示された。
 この大聖人の「勇気」の御心を、自身の決意として、あらゆる困難に莞爾として立ち向かっていくことが、今度は私たちの発迹顕本につながる。
 斎藤 今の地球を見ると、無明が人類を覆っているような気がします。二十世紀は、結局は戦争の無明、エゴによる環境破壊の無明、貧困を生む無明、差別の無明、衝突の無明がことごとく噴出した世紀でした。
 池田 しかし、唯一の"収穫"はあります。それは、人間自身が変わらなければ、そうした人類の闇は晴れないということに心ある人が気づき始めたことです。
 私の敬愛すべき友人であった故ノーマン・カズンズ氏は、重病など、多くの苦難を受けた人であるが、楽観主義を終生貫かれた。
 氏は、こう言われている。
 「人間は恐らく、現代世界の変化に対処するだけの理解力を養うことはできまいと言う人々がある。しかし人間をもっと高く評価する、別の見方もある。歴史が裏書きするのは、そちらの方であろう。その見方によれば、すでに人間の内部に、変化に対応する大きな能力が存在していて、きっかけさえ与えられれば、すぐに発揮されるはずである。人間は無限の順応力、無限の向上力、無限の包容力を持っているのである。その巨大な可能性に呼び掛けるのが、指導者の地位にある人の特権である」(「人間の選択」)
 人類の持つ無明の転換――文字通り人類の宿命の転換です。二十一世紀は人類全体の発迹顕本の岐路とも言える。
 転換できなければ、二十一世紀は二十世紀以上に無明が広がってしまう。そうなればもう、人類には先がありません。人類にとって苦難と試練が続く現代は、人類が地球規模で目覚める大きなチャンスなのです。
 人類の発迹顕本――。日蓮仏法は、その必要性と可能性を教えています。ゆえに、二十一世紀に必要不可欠な人類宗教であると私は信じています。それを証明するのが、二十一世紀の青年たちであることも、私は固く信じています。

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