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日蓮大聖人・池田大作

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師も弟子もともに不二の師子吼を  

講義「御書の世界」(上)(池田大作全集第32巻)

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12  勇気こそが信心の極意
 森中 はい。拝読します。
 「各各師子王の心を取り出して・いかに人をどすともをづる事なかれ、師子王は百獣にをぢず・師子の子・又かくのごとし、彼等は野干のほうるなり日蓮が一門は師子の吼るなり
 〈通解〉――日蓮門下の一人ひとりは、師子王の心を取り出して、どんなに人が脅してもひるむことがあってはならない。師子王は百獣を恐れない。師子王の子もまた同じである。彼らは狐などが吠えているようなものである。日蓮の一門は師子が吼えているのである。
 池田 「聖人御難事」は、先ほどもあったように、熱原の法難という門下の最大の法難の渦中に、全門下あてに認められた御書です。
 公家でも武家でも僧でもなく、農民信徒という民衆の基底部にいる無名の門下たちが、幕府の権力をかさにきた横暴な武士たちや悪僧たちの弾圧に一歩も退かなかった事件です。どんな権力者も、彼らの信仰をやめさせることはできなかった。
 本来であれば、日本の民衆史に燦然と輝く人権闘争の珠玉の歴史です。
 どんな難にもびくともしなかった彼らの姿に、大聖人が時の到来を感じられて大御本尊を建立されたことは、どこまでも意義深いことです。
 その時、門下全員に、大聖人が強く呼び掛けられたのが、今拝読した一節です。
 本抄で、「師子王の心」とは、どんな弾圧にも敢然と戦う「勇気」の異名といえる。
 信心とは「勇気」です。難が来ようと、諸天が動くまいと、どんな苦難に直面しても、絶対にこの信仰だけは貫いてみせる、という「勇気」こそが、幸福への直道です。
 大聖人は、先ほどの「佐渡御書」でもそうでしたが、自ら「勇気」の範を示された後に、皆も、同じ「勇気」で立ち上がれば、仏になれるのだと力強く仰せです。自分は戦った。そのようにあなたも戦いなさい――それが、仏法の指導者です。
 自分ができないことを人に強制する。それが独裁者です。
 また、自分だけでなく、大勢の人に、同じ境涯の高さに引き上げようとして、共に戦うことを呼び掛ける。
 仏法の指導者は、真のすぐれた人間教育者でもあります。
 日蓮仏法には、真の人間教育の模範があり、また、真に民衆を守る社会の指導者としての側面も、当然あります。
 そして、一人ひとりを慈しむ姿は、まさに親の慈愛と同じです。
 森中 それが主師親の三徳ですね。
 池田 そうです。一切衆生を守り支える側面。それが「主の徳」です。一切衆生を導く側面。それが「師の徳」です。そして、一切衆生を慈しむ側面。それが「親の徳」です。
 斎藤 現代人にとって、「師匠」という言葉がわかりづらい面がある。しかし、「指導者」であり「教育者」「保護者」であると示せば理解が深まるようです。
 池田 その三徳をすべて併せ持っているから仏なのです。末法において主師親の三徳を具備しておられるのは日蓮大聖人です。ですから、日蓮大聖人を末法の御本仏と拝するのです。その根底には、民衆を慈しみ、民衆を仏の境涯に引き上げようとされる大慈大悲があられる。
 森中 現代の社会の指導者に一番欠けている点ですね。しかし、心ある識者は、民衆に奉仕する指導者こそ真の指導者であると見始めています。教育の分野でも、各界でも、そうした動きがあります。
 池田 そこで、「聖人御難事」の一節に戻るが、重要な仰せは「各各師子王の心を取り出して」とあるように、「取り出す」ことです。
 誰にでも「師子王の心」があります。それを「取り出す」ことが幸福への直道です。自身の胸中の「師子王の心」を取り出す方途は、「日蓮が一門は師子の吼るなり」(同)と仰せのように、師子吼です。師匠と同じように正義の師子吼をしていきなさい。それが、弟子が師匠と一体となり、師子の子が師子王になる道である――その原理を「御義口伝」に仰せです。
13  「作師子吼」と師弟不二
 森中 「御義口伝に云く師子吼とは仏の説なり説法とは法華別しては南無妙法蓮華経なり、師とは師匠授くる所の妙法子とは弟子受くる所の妙法・吼とは師弟共に唱うる所の音声なり作とはおこすと読むなり、末法にして南無妙法蓮華経をおこすなり
 〈通解〉――(法華経勧持品で説かれる「仏の前に於いて、師子吼を作して、誓言を発さく」〔法華経417㌻〕の「師子吼」についての)「御義口伝」に云く、「師子吼」とは仏の説である。仏の「説法」の本義とは法華経二十八品であり、別しては南無妙法蓮華経である。
 (「作師子吼」の)「師」とは「師匠が授ける所の妙法」、「子」とは「弟子が受ける所の妙法」である。「吼」とは「師と弟子が共に唱える所の音声」であり、「作」とは、おこすと読むのである。"師子吼をおこす"とは、末法において、南無妙法蓮華経をおこすのである。
 池田 「師弟不二」です。
 「おこす」とは能動です。受け身ではなく、積極的に立ち上がってこそ「おこす」ことになる。
 どこまでも弟子の自覚、決意の如何である、ということです。
 実際に、「法華経勧持品」では、釈尊は菩薩たちに呼び掛ける。自分が師子吼したように、皆も師子吼するのか、今、ここでその誓いの言葉を出しなさい、と。
 言い換えれば、「弟子」といっても、この仏法では、いわゆる「弟子入り」があるわけではない。今、現実に師子吼して戦っている人が「弟子」です。反対に、弟子の顔をしていても、実際に師子吼していない人は、真の弟子ではない。大事なのは行動です。
 斎藤 師子吼といっても、例えば何かの国際会議場で叫ぶような特別なことではありませんね。今、目の前の一人の生命に直接呼び掛ける師子吼の対話があるかどうかです。
 池田 胸中の「師子王の心」を呼び覚まし、顕に出すために、私たちは「師子吼」していくのです。
 師匠が師子吼した。次に弟子が師子吼する。そして目覚めた民衆が次々と師子吼の大音声を唱える。その師子吼の包囲が一切の野干の魔性を破っていくのです。
 戸田先生は言われた。
 「(大聖人の「開目抄」の誓願は)われ三徳具備の仏として、日本民衆を苦悩の底より救いいださんとのご決意であられる。われらは、この大師子吼の跡を紹継した良き大聖人の弟子なれば、また共に国士と任じて、現今の大苦悩に沈む民衆を救わなくてはならぬ」(『戸田城聖全集』第一巻)
 この戸田先生の師子吼に、私も立ち上がりました。当時の青年部も次々と立ち上がった。そして今の創価学会ができたのです。
 次は、二十一世紀の青年が師子吼する番です。今度は世界中の青年たちが希望の師子吼のスクラムで立ち上がれば、二十一世紀の創価学会は盤石です。それが二十一世紀の世界の希望です。

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