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日蓮大聖人・池田大作

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批判と研究  

「わたしの随想集」「私の人生随想」「きのう きょう」(池田大作全集第19…

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2  ところで、本書でも重要な問題となっているが、原典批判ということがよくいわれる。歴史上の事実を記録した原典そのものにあたり、これを批判的に研究することによって、初めて確かな史実が抽出されるということであろう。
 歴史も学問である以上、この方法は、どこまでも貫かなくてはならないのは当然であろう。
 事実、近代の歴史学の発展には、こうした原典批判に負うところが大きい。今日の西洋史の源流である、あの古代ギリシャの歴史も、こうした原典の批判的研究によって、十九世紀において明らかになったといわれている。また、とかくナゾに包まれがちであったインド古代史も、サンスクリットの原典の科学的解明で明確になった。原典の科学的解剖は、まさに近代史学の発展の重要な要因であったといってよい。
 だが、ここで注意しなければならないのは、原典批判という場合の「批判」の意味である。
 われわれは、ともすれば「批判」という言葉を、今日の合理主義精神に反するものを批判するという形で受け取っている。いわゆる「批判」精神などという用語は、その代表的なもので、それは合理精神にほかならない。
 もちろん合理精神それ自体を悪いというつもりは、さらさらない。しかし、この合理ということは、きわめて安易に「われわれの時代で常識とされていること」に置き換えられている場合が多い。つまり、今日、常識と考えられていることに反するから、それは間違いであるという考え方である。
 だが、これがはたして峻厳な合理精神といえるであろうか。そこには、あまりにも現代の知識に対する信が、無批判に前提されているように思われる。たとえば、古代や中世はきわめて単純で原始的であり、近代以後の知識からすれば遙かに粗雑であったにちがいないという、現代人の横暴なる“常識”がある。
 たしかに知識量の差は大きいかもしれない。だが、さまざまな事象、事物を全体的に把握する力――英知の働きにおいて、はたしてそんなに格差があるのだろうか。私は、ある場合には、古代の人々が記したもののなかにも、時代の流れを超えて現代に深い示唆をもたらす知恵が含まれているのではないかと考える。実際、博識で浅薄な精神の場合もあれば、単純で真実な精神というものもあるのである。
 「批判」はどこまでも厳密であるべきだ。なればこそ「批判」にあたっては、偏見や先入観をできるかぎり排除して、まず対象そのものを冷静、正確に凝視することが大切であろう。そもそも「批判の眼」が歪んでいれば、対象はどうしても歪んだ映像を結ばざるをえないのだろうから――。

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