Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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「祈祷抄」  

講義「諸法実相抄」「生死一大事血脈抄」(池田大作全集第24巻)

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3  ”祈る”ことから一切が出発
 祈りとは、ある意味で人間の心に変化をもたらすものであります。目に見えないが深いその一人の心の変化は、決して一人にとどまるものではありません。また一つの地域の変革は、決してその地域のみにとどまってはいない。一波が万波を呼ぶように、必ず他の地域に変革の波動を及ぼしていくのであります。
 そうした展転の原点となる最初の一撃は、一人の人間の心の中における変革であると、私は申し上げたいのであります。
 仏法は道理である、と言われることの深意もここにあるといってよいでしょう。譬えの中の「音」「体」「すめる水」等は祈りの姿であり、「響」「影」「水にうつる月」等は、祈りの叶っていく自然な様相をあらわしていると拝することもできます。それらの譬えが自然の理法であるように、法華経の行者の祈りは、生命の世界の必然の法として、道理として、必ず叶っていくのであります。
 こうした祈りは、傲慢や慢心とは、およそ縁遠いものでありましょう。端座唱題の凛然たる姿には、浅薄な自己の智慧、わずかな経験への執着を乗り越えて、仏の智慧によって見いだされた生命の法、自然、宇宙の根源のリズムに冥合しようとの、謙虚な姿勢が脈打っているものであります。卑屈にもならず、一切の活動を一念へと凝縮し、生命の充電を受けつつ、無限の飛躍を期している。それは人間生命の、最も健康にして充溢した姿なのであります。
 ともかくも、私どもは、生活の、人生のすべての問題を御本尊に祈りきって、取り組んでいこうではありませんか。
 この、すべてを祈り、勝ち取ってきた戦いこそが、個人の人間革命をもたらし、今日の大河の日蓮正宗そして創価学会を築いてきた原動力なのであります。
 ゆえに、祈ることが大事であり、そこから一切が出発することを忘れてはならないと申し上げたい。事のうえにおいて、祈りを失って、我が生命を回転させなければ、どのようなうまい話をし、高尚な理論を展開しても、それはすべて理であり、夢であり、幻となってしまう。信心といい、学会精神といい、すべて現実を、強く、深く祈ることから始まるといってよいのであります。
 仏法の祈りは、単に祈っていればいいというものではない。満々たる生命力をはらんだ矢が射られていくごとく、行動、実践をはらんでいるのであります。したがって、行動なき祈りは観念であり、祈りなき行動は空転なのであります。
 ゆえに、偉大なる祈りは、偉大なる責任感から起こると申し上げたい。仕事に対し、生活に対し、人生に対して無責任な姿勢、どうでもいいという姿勢からは、決して祈りは起こってきません。
 自己のかかわる一切に責任を持ち、真剣に取り組んでいる人こそ祈りを持つものであります。
 世の中が厳しいだけに、生活の一つ一つに強い祈りを持って取り組んでいただきたいことを重ねて申し上げ、私の講義とさせていただきます。

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