Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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末法の御本仏を宣言  

講義「諸法実相抄」「生死一大事血脈抄」(池田大作全集第24巻)

前後
27  迹門方便品に「実相」の名で示されたものの本体は、本門寿量品にあらわれた妙法蓮華経にほかならないということを、天台の釈を挙げて裏づけられたところであります。
 「此の釈能く能く心中に案じさせ給へ候へ」と仰せのように、これは法華経の根本義にかかわる深い法門であります。というのは、天台は明確には言っておりませんが、この釈を大聖人の観心のうえで読めば、実相の究極は何かといえば、寿量文底の南無妙法蓮華経を示しているからであります。
 一往、法華経の経文の流れをみますと、法華経は、一切衆生の成仏のカギとなる三世諸仏の悟りの法を明かそうとしたのであります。方便品の初めに「諸仏智慧甚深無量」とあるのがそれであり、方便品に示されたその法の内容が「諸法実相、十如是」だったのであります。
 ゆえに、声聞の弟子の中でも智慧第一と称せられた舎利弗は、ただこの「諸法実相」の説法で得脱し、他の中根、下根の声聞達も、その後の譬喩説、因縁説によって、次々と得脱したわけであります。この在世の弟子、声聞達に対する説法のあと、法師品、宝塔品以下は、仏滅後の未来に妙法蓮華経を誰が弘めるかと釈尊が呼びかけ、それにこたえて、迹化の菩薩達が名乗りでる、しかしこれを釈尊は制止し、大地から本化の菩薩を召しいだして、この地涌の菩薩に法を付嘱する、という流れで展開されます。
28  したがって、法師品、宝塔品以下は、文のうえからみますと、滅後弘通の人を定めることを目的として展開されたことは明らかであります。しかしながら、ただそれだけではない。再往これをみれば、そこには、滅後弘通の法体そのものが明かされている。これが「本有の妙法蓮華経」であります。
 在世の声聞の弟子達は、過去に下種・結縁がありますから、すなわち本己有善のゆえに、法華経の会座では「諸法実相」の説法、ないし「三車火宅の譬」、あるいは三千塵点劫の結縁の説法を問いただけで、種子を覚知することができたのであります。
 これは、一つのたとえで言えば、かつて歩いたことのある道で、記憶が定かでなく、迷っている場合に似ています。大部分は思い出せるが、一つだけ曲がり角がどこだったか分からない場合、その一カ所だけ教えてもらえば、あとは迷わずに目的地へ行けるのです。舎利弗が「諸法実相」だけで得脱できたのは、これと同じようなものと考えてよいでしょう。
29  ところが、未来、特に末法の衆生は、過去に下種・結縁のない衆生、つまり本未有善の機であります。かつて歩いたことのない道は途中のどこをどのように教えても、目的地を思い出させることはできません。目的地そのものを示さなければならない。この目的地が「本有の妙法蓮華経」です。
 法華経の儀式の中で、法師品以後、特に宝塔品で多宝の塔があらわれ、そこに釈迦と多宝の二仏が並座し、更に十方の諸仏が来至し、本化の菩薩が涌出して展開された、虚空会の儀式は、寿量品で魂を得て、そのまま「本有の妙法蓮華経」を表現していたのであります。
 とはいえ、釈尊の法華経二十八品は、本門といえども、この「本有の妙法蓮華経」にいたる道を図に書いて示したようなものであります。
 「本有の妙法」自体を具現化され、末代幼稚の凡夫に受持させてくださったのが、末法御本仏日蓮大聖人なのであります。
 このように、同じく「諸法実相」と言っても、迹門、本門、文底独一本門の立場で、読み方が異なります。
 文底独一本門に約せば、御本尊そのものが諸法実相であります。更に信心に約せば、大御本尊を受持しぬいた時に、妙法の生命が涌現し、幸福の諸法実相、人間革命の諸法実相として、我が人生が建設されてくるのであります。

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