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日蓮大聖人・池田大作

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「科学と人間」の新しき地平線 サートン『科学史と新ヒューマニズム』

「若き日の読書」「続・若き日の読書」(池田大作全集第23巻)

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5  「全体像」を求めて東洋に着目
 この新ヒューマニズムを基調としたサートンの科学史は、科学を中心に、芸術や宗教など他の文化部門を総合するという偉大な意図のもとに構想された。いわば「諸学の学」「人間の学」の色調を帯びている。
 総合的な科学史研究という考えは、社会学の創始者として知られる十九世紀フランスの哲学者コントに遡るとされるが、独立した学問分野として成長するのは今世紀に入ってからのことである。
 サートンはその草分けであり、アメリカにおける科学史研究の「始祖」的存在といってよい。
 その具体的な例として、彼は古代エジプト、メソポタミア、中世アラビア文化への豊かな造詣を生かして、西洋科学の淵源が東洋の諸文明にあることを諄々と論証していく。彼自身、その後、アラビア科学史の研究を熱心に続け、中東を訪問している。
 「光は東より! 吾々の最も初期の科学知識が東洋に源を発することには些かの疑いもない」──東洋の英知が育んだ天文学・数学・医学などの知識が、いかにギリシアやローマの文明に受け継がれ、ヨーロッパ科学の「胚種」となっていったかをたどるサートンの眼差しは、東洋人の営々たる科学的努力への尊敬と愛情に満ちている。
 そして彼は「東と西との律動を記憶せよ。すでに幾度か吾々の霊感は東から来た。それが再び来ないという理由が何処にあろうか。恐らく偉大な思想は今後もなお東から吾々に達するであろう。吾々はそれを迎える心の準備をしておかねばならなバ)」と、東洋文明への絶大な期待を語るのである。
 いまだ欧米諸国に、アジアや中東諸国への優越意識や偏見が色濃かった当時にあってのすぐれた史眼である。
 おそらくサートンは、第一次世界大戦の体験を経て、西洋文明の傲りへの強い危惧を抱いていたにちがいない。
 いうまでもなく彼の考えは、今日、時折みうけられるような、エキゾチズム本位の俗流オリエンタリズムとは無縁であった。
 「人類の全一性は東と西とを包容する。それは一人の人間に於ける二つの気分のようなものである。この両者は人間の経験のもつ根本的且つ相互補足的な二面を示すものである。科学的真理は東西ともに唯一つである」
 人類を一つに結ぶ「架橋」としての科学的真理。その全体像に迫るうえでの東洋への着目であった。
 アインシュタインの「人類の滅亡を防ぐには、偉大な精神文明の台頭が必要であり、私は、それを東洋に期待する」という指摘とも響きあう卓見であろう。
 このことで想起するのは、不確定性原理で知られるドイツの理論物理学者ハイゼンベルクが、詩聖タゴールと対話した際、量子力学の導きだす世界像とインド思想の世界観とがあまりにも近いことを知って目を瞠った、というエピソードである。
 東と西、見つめるのは「同じ宇宙」であった! ──東洋の英知の光を目のあたりにしたハイゼンベルクの驚きと感銘は、いかばかりであったろうか。
 私もまた、洋の東西や体制の違いを超えた科学的真理の交流が、新しきグローバリズムの源泉となり、平和創造の力となることを期待する一人である。
 ただ先に述べたように、人類の諸問題は、「真理」と「価値」の二律背反アンチノミーという問題を深刻につきつけており、もはや科学的真理の探究が、人類全体にそのまま価値をもたらすという前提は成り立たなくなっている。
 その意味で、個々の科学的知識をより豊かな「知恵の全体性」のなかに位置づけ、生かしていく土壌こそ必要とされている。私はそれを、東洋思想の真髄である仏法に求めたいのである。
6  真に科学をリードするもの
 ともあれ、人間精神における科学と歴史の結合をめざすサートンの志は、また不断の精神闘争への決心でもあった。
 「科学史は、迷信と無知の怠け者に対する、また虚言者と偽善者、詐欺者と自欺者に対する、また暗黒と不合理のあらゆる勢力に対する、決して止むことのない長期戦の物語である」
 彼の真理への情熱は「人類の知的団結を破壊する者」への闘争心と一体であった。新ヒューマニズムとは、何より戦うヒューマニズムであった。科学はもとより、「学問」「真理」に生きるすべての人間が模範とすべき態度であろう。
 膨大な主著『科学史序説』はサートンの死によって未完に終わったが、丹念な資料収集にもとづく彼の業績は、二十世紀における、科学と人間をめぐる「止むことのない長期戦」の嚆矢こうしとなった。
 彼の主宰した研究誌『アイシス』が、よき継承者を得て彼の死後も存続している事実は、何よりその象徴であろう。
 科学とは何か、歴史とは何か、そして人間とは‥‥と問い続けたサートンは、まことに「科学史家であることを通して人間を欣求する求道者」(森島恒雄)と呼ぶにふさわしい真率の学究であり、科学の黄金時代の余光を浴びながら、大らかな「全人性」の讃歌を語いあげた戦人であった。
7  私が『科学と宗教』を上梓したのは昭和四十年(一九六五年)のことである。
 同著では、天文・物理・生物・医学など各分野の知見を検証し、科学をリードしてゆく仏法哲理の卓越性を論じた。
 もとより、それは一つの手がかりとして編んだものである。十七世紀のデカルト、パスカルから近年のベルクソン、ニーダムらにいたる幾多の精神的営為が物語るように、「科学と宗教」とは、人類が永遠に問い続けるべきテーマにほかならない。
 恩師戸田先生は、さまざまな宗教を学んだ経験をとおし、非科学的な教義では現代人はとうてい納得しえないと述べ、「科学と相反せず、しかも科学的にして、実験証明のともなう、論理的な宗教こそ最高のものだ」と語っていた。日蓮大聖人の仏法こそ、真に科学をリードし、人間のための科学の曙光を輝かせていく地平となるという確信であった。
 その同じ信念から、私も科学について機会あるごとに発言を重ねてきた。
 アメリカのポーリング博士、ロシアのログノフ博士(モスクワ大学前総長)をはじめ、世界の多くの科学者とも対話を交わしている。ログノフ博士とは、現在、二番目の対談集『科学と宗教』の編纂を進めている最中である。世界の知性と知性、良心と良心を結び、科学の進歩と人類の幸福に貢献できれば──。これが私の真情である。
 恩師はよく「科学が進歩すればするほど、仏法の偉大さが証明されるであろう」と語っておられた。恩師の心とともに、私の生涯はある。

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