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日蓮大聖人・池田大作

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信念に生きる青年のドラマ デュマ『モンテ・クリスト伯』

「若き日の読書」「続・若き日の読書」(池田大作全集第23巻)

前後
6  恩師は水滸会員の意見を注意深く聞きながら、みなの議論が出尽くしたころを見はからい、的確な寸評と、いかにも独創的な見解を披瀝するのである。
 ダンテスが社交界で成功した理由は何か。──会員のあいだからは、さまざまな理由が挙げられた。
 ──財力である。彼は持てる財宝を存分に使って成功を収めた。
 ──智慧と雄弁の力によって勝った。社交の慎重さ、風貌の優しさと相まって、彼には人を見抜く力があった。
 ──いや、根本は復讐を遂げようとする一念の力である。どのようにしたら効果的な復讐となるか、相手をよく観察し、また社交界の性質なども勉強している。‥‥
 このような会員の意見に対して、恩師はやや否定的であった。そして、むしろ青年らしい社交のあり方を説いていった。
 「若い諸君は、ダンテスのような行き方をとる必要はない。二十代の青年が、敵か味方かを一々さぐり、考えているのでは、純真さがなくて、私は嫌いである。
 青年には信用が財産である。しかも、信用を得る根本は、約束を守るということである。できないことは、はっきり断る。そのかわり、いったん引き受けた約束は、何を犠牲にしても絶対に守ることだ。これが青年の社交術であり、金はかからないよ」
 たしかに、ドラマの筋を追うだけでは、こういった独特な視角の教訓は得られまい。恩師が「書に読まれるな」と言われた意味が、実感として胸におさまった。
 戸田先生はまた、必ずしもダンテスの復讐譚に賛成していたわけではない。むしろ「陰険で、執念深いのは、いやだな」と言われていたのを、私は記憶している。
 「なぜ、あのような方法で復讐をするのかというと、キリストの神に力がないので、人間が神に代わって裁くのだという思想が、この本の全体を貫いていると思う。
 このようなデュマの考え方に、私は反対である。人間が神に代わって罰するという考えは間違っている。法罰でいかなければならない。法に力があるときには、人間が人間を罰する必要はないからである」
7  作者のデュマにしても、これを悪人必罰の復讐譚で終わらせるには限界があることを、あるいは感づいていたかもしれない。
 フェルナンが自殺し、ヴィルフォールは発狂し、そしてダングラールが破産したにもかかわらず、ダンテスの心には、復讐の達成による充足感はなかった。彼は罪悪感にさいなまれ、空しさに揺れる心情を告白している。
 「わたしを敵にたいして反抗させ、わたしを勝たせてくれた神、その神は(わたしにはよくわかっている)わたしの勝利のあとにこうした悔恨の気持をもたせたくないと思われたのだ。わたしは、自分を罰したいと考えた」
 つまり作者は、ダンテスにこのような悲痛な言葉を吐かせなければ、その作品の幕を閉じられなかったのであろう。ここに私は、デュマの本心を見る思いがしてならない。
8  ともあれ恩師は、一篇の小説を読むに際しでも、物語の底流にある思想は何か、作者の意図がどこにあるかを深く読みとらなければならない、と言われる。さらに、その作品が世界文学であれば、舞台となる国の社会事情や時代背景を事前に調べておく必要があろう。
 私たちは『モンテ・クリスト伯』を読むにあたり、この小説の背後につねに見え隠れするナポレオンの存在にも注意を払った。また、フランスにとっては未曾有の動乱期にあたる十九世紀初頭の歴史を、絶えず念頭におきつつ読んでいったのである。既成の権威が崩壊し、キリスト教の力も弱まりつつあった時代──人心の動揺する社会にデュマの『モンテ・クリスト伯』が喝采を博した背景も掘り下げられた。
 そうした青年の熱っぽい議論を聞きながら、恩師は時に厳格な表情を見せつつも、いかにも愉しそうに語っていた姿が忘れられない。今にして思えば、戸田先生は私たちに貴重な教訓を、全力を世げて遺されたのである。

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