Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

織りなす人物の長篇詩 吉川英治『三国志』

「若き日の読書」「続・若き日の読書」(池田大作全集第23巻)

前後
5  読み返すたびに思師の声
 さて『三国志』の圧巻は、なんといっても「赤壁の戦」(二〇八年)の描写に尽きよう。
 魏の曹操が率いる八十万もの大軍と、江南の呉主孫権との「史上空前の決戦」といわれるものだ。玄徳軍の軍師孔明が、一帆の風雲に乗じ、その三寸不欄の舌をもって呉軍を説得。見事、赤壁の大捷に導くまでの機略縦横の活躍が描かれる。
 敗走する曹操が、かつて礼を尽くして迎えた関羽によって、一命を助けられるくだりがある。曹操を「乱世の英雄」として高く評価しつつも、なかなか好きになれない思師は、感にたえない表情で話していたのを忘れられない。
 「曹操は、将軍として、たしかに偉い。人生の生き方として、彼に似ているのは、ナボレオンか、織田信長のような英雄ではないか。
 彼は奸雄だ。自分に尽くした者でも、平気で殺すような、酷薄な人間である。
 しかし、その曹操が、関羽によって助かったのは、ずるい人間が、人の好い人間をだました姿だよ。あのとき、関羽でなかったら、あるいは曹操を倒せたかもしれない。そこに、曹操の運勢があったんだなア」
 もちろん小説では、いかにも曹操が悪人であったかのように描かれている。戸田先生は十分、そのことを承知のうえで話されたのであろう。
 むしろ、ここで強調されていたことは、曹操の悪運の強さというよりも、孔明の戦略の失策ということであった。といっても、吉川『三国志』では、あえて孔明は失策を承知のうえで関羽を派遣したことになっている。しかし実際は、孔明といえども、そこまで読みとおしていたかどうか、はなはだ疑問である。
 したがって恩師は、そのとき関羽でなく、張飛か越雲子龍を派遣していれば、ついに曹操を倒すことができたはずだ、という。あるいは孔明自身であってもよい。それをしなかったのは、軍師孔明ほどの人が、駒の配置をまちがえたからであるという解釈になる。つまり、思師が人物を知ることの重要性を説いてやまなかったのは、つねに人間の長所を見いだし、適材を適所に置くという発想にもとづくものであった。
 戦時に向く人と、平時に有能な人がいる。戦闘には強くても、必ずしも良い官吏になるとは限らない。どんな人でも、それぞれの特長に合う生き方に向けていけば、すべて生きてくるという指摘であった。
6  曹操が好きになれなかったのは、彼が晩年になって大成するにしたがい、慢心を生じ、自分を諌める者があっても遠ざけたり、殺したりするようになったからであろう。
 そうした例を挙げて、戸田先生は水滸会員に厳しく諭されたことがある。
 「一つの組織のなかにおいても、反対の意見を出す者がなければ、その組織は発展しない。とくに青年部においては、年長者の言うなりになってしまう傾向がある。故に諸君は、幹部となっても、自分と反対の意見を述べる人を、つとめて大切に扱うようにしていきなさい」
 あたかも遺言のような響きをもっ言葉であった。
7  小説『三国志』後半の英雄は、いうまでもなく諸葛孔明である。
 その孔明こそ、恩師が好んでやまない人物であったことは、知る人ぞ知るといってよい。孔明の心境をうたい上げた土井晩翠の「星落秋風五丈原」の詩を聞くたびに、いつしか目に光るものを宿す場面を、われわれは幾度となく目にしたものであった。
 「人間おのおの長所があれば、短所もあるものだ。さすがの孔明とて、いかんともしがたいところがあろう。
 蜀の国に人材が集まらなかったのは、あまりにも孔明が才に長け、凡帳面すぎたからだ。しかも、彼には人材を一所懸命になって探す余裕もなかった。そこに後継者が育たなかった原因があると思う。
 しかし、ともあれ孔明の死後、蜀は三十年間も保ちえたのを見れば、まったく人材がいなかったわけでもない」
 いかにも万感胸に迫る思師の感想であった。
 私は、吉川『三国志』を読みかえすたびに、今でも恩師の声を聞く思いがする。

1
5