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日蓮大聖人・池田大作

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百年の後に知己を待つ 勝海舟『氷川清話』『海舟座談』

「若き日の読書」「続・若き日の読書」(池田大作全集第23巻)

前後
9  東洋との善隣友好を主張
 敗戦直後私が『海舟座談』を読んだころは、まだ海舟が死んでから五十年と経っていなかった。ところが、マッカーサー占領軍による間接統治を目して、江戸の無血開城になぞらえる意見もあった。
 のちに知ったことだが、そのころ、作家の子母津寛は、ある新聞に小説『勝海舟』を書きついでいたという。──その連載開始は、戦時中の昭和十六年(一九四一年)にさかのぼる。しかも、第四巻までは『勝安房守』と題して、われらの恩師戸田城聖先生が、入獄前に経営していた大道書房から出版されたものだ。
 子母津寛の本名は梅谷松太郎といい、その祖父十次郎は、彰義隊くずれの旧幕臣であった。箱館(当時)の五稜郭に拠って、官軍との決戦に敗れた梅谷ら七人の侍は、明治三年(一八七〇年)春、アイヌ語で「荒海の浜」という意味の厚田村に落ちのびたのである。
 幼いころの子母揮は、その祖父から雪深い冬の夜ごとに、江戸の昔語りや、勝小吉・麟太郎親子にまつわる話を聞いて育ったにちがいない。それが後年、彼の名作『父子鷹』『勝海舟』など、一連の幕末維新物として結晶していったものと、私は思っている。
 戸田先生の実兄は、その子母津と厚田村で遊び友達であった。そんな関係から、やがて先生は、この同郷の作家とも親交を結ぶにいたったと聞く。ちなみに大道書房というのは、昭和十五年(一九四〇年)五月、戸田先生が子母津の小説『大道』を出版するとき、社名を作品からとったことに由来するという。
 その後、私は信仰の道に入り、戸田先生の近くに師事することになるが、先生はよく青年に対して、あたかも海舟の言行録を掌中のものとし、的確なる人物評を下していたように見受けられた。
10  じつは『氷川清話』については、もう一つの後日譚がある。
 それは一九六八年のこと──いわゆる「七〇年安保」を目前にひかえて、わが国は左右激突の騒然たる様相を呈し始めていた。大規模な学生運動の嵐が、各大学のキャンパスに巻きおこり、ベトナムの戦火も収まらず、日本は安保防衛問題をめぐって、袋小路におちいっていた時期である。
 私は、そのような時代状況を横目に見ながら、ふと勝海舟が構想していた外交方針を想いおこした。ちょうど、その年は「明治百年」にもあたり、その記念出版として『氷川清話』が『勝海舟自伝』と題して復刻されてもいた。
 あらためて読みなおしてみると、海舟は日清戦争に反対し、時の伊藤博文内閣に対して、強く和平の議を建言している。彼は、東洋の民族が相食む戦争を否定し、中国、朝鮮の民衆と善隣友好の関係を保つべきであると主張したのである。
 私は、その卓抜なる先見の明に学び、わが学生部の第十一回総会の二万名参加の席上、未来を託すべき青年諸君の英智に向けて、中国問題に関する発想の転換を呼びかけた。おそらく中国にも、日本の明治時代に隠れたる具眼の士がいたことを、知る人もあったにちがいない。はたして、私の提唱に対して、海の向こうから確かな手応えがあったのも、今にして思えば不思議なめぐりあわせである。

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