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日蓮大聖人・池田大作

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新潟に咲く幸の花  

1971.5.16 「随筆 人間革命」「私の履歴書」「つれずれ随想」(池田大作全集…

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1  五月十六日。
 新潟は、五月晴れであった。風もなく、樹々の青葉が清々しい。
 閑静な地にある三階建ての新潟本部には、眩いほどの、朝の太陽が燦々と入ってくる。あの法難の嵐に立ち向かい、日本海に臨んだ折の日蓮大聖人の強く凛然たるお姿を偲びつつ、心爽やかに、勤行を終わる。
 銀色の越後米が本当に美味しかった。幸せというものは、いまよりも昔に、大都会よりも地方にあったのかと語りながら、お味噌汁も、お新香も、干ガレイも、久しぶりに“お袋”の味でいただいた。十一時四十分より、H高校の体育館にて、二千数百名の新しい歴史の出発点を自覚した、わが友と記念撮影を開始。三月の信越文化祭に出席できなかった償いとしての訪問である。
 新潟といえば寺泊。さらに“数数見擯出”の流難の佐渡。日蓮門下には忘れることのできぬ帰趨の地。戸田城聖が、新潟県の指導に初めて赴いたのは、昭和三十年(一九五五年)八月十三日である。その日は、新潟市公会堂において新潟地区の総会が行われた。伸一が、最初に雪中の新潟指導に馳せ参じたのは、二十九年二月十三日。E総務なども、そのときに指導したなかより成長した人である。
 新潟の地区は向島支部西吾嬬地区に所属していた。この地区は学会全体のなかで、折伏の十傑に入る法戦をしていたのである。地区部長のH氏は、地区担当員の夫人とともに、週に一回ぐらい、弛まず新潟指導の任を全うしていた。やがて、業績の振るわない斜陽の町工場を閉じたH氏夫妻は、コックの経験を生かして、新潟方面に食堂を開業することにしたようである。
 彼は戸田に相談に行った。
 「しばらくの間、新潟に行って生活の様子を考えたいと思います」
 戸田は、厳しく、これに答えた。
 「行くのは自由だ。しかし、行くからには、新潟に骨を埋める覚悟で行かなければ、なにができるか」
 彼の覚悟は、甘い考えをかなぐり捨て、決然となった。それは、昭和三十年五月二十六日のことである。
 以来、夫妻は戸田の一言を胸に秘め、寒い広野のなかを純粋に戦い抜いた。幼かった五人の子どもも立派に成長し、市の有名人としても、広布の柱としても、ますます開拓の駒に乗って悠然と進んでいる。
 夫妻は、いつも微笑を忘れない。彼は、戸田との深い約束の原点を忘れなかった。夫妻が健在であるかぎり、新潟は盤石であろう。うるわしいH一家に幸あれと、私は祈らずにはいられなかった。
2  当時、千世帯であったこの地区も、県下にあったいくつかの他支部の同志の建設もあって、現在では四万世帯を超えているようだ。留難の地にも、平和と広布の進歩の足音は響き渡っている。嬉しい。
 撮影が終わって、佐渡の同志が衣裳も凛々しく「相川音頭」を踊って見せてくれた。その見事な舞いにしばし感嘆。「佐渡おけさ」も、完璧なリズムに乗って踊ってくれた。
 鼓笛隊の幻想的な行進には、万雷の拍手が沸き、期せずしてアンコールをお願いした。清い瞳──敏捷な回転、天使それ自体の振る舞いに、人びとは、ただ夢のような時間を送るのであった。乙女らが一人ひとり摘みとって作った、ワラビの塩漬けを贈られたときは、涙がこぼれる思いであった。乙女らの前途よ多幸であれと、そして、乙女らを護るために、生き抜くことを自身に言いきかせるのであった。
  大聖を 偲びて守る わが誇り

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