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日蓮大聖人・池田大作

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中国の近代化に駆ける科学者 周培源・北…  

「私の人物観」(池田大作全集第21巻)

前後
3  翌年九月――まだ暑気の去りきらぬ初秋の日が、ようやく斜陽になった夕刻のことであった。私は、日本を訪れていた周学長を、聖教新聞社にお迎えした。
 周学長は、中国科学院代表団の団長として来日されていたのである。わが国の学術界、政界の要人との懇談や、優れた研究施設の視察、あるいは自ら講演に立つなど、念願とされていた日本との学術交流に、寧日なく飛び回っておられた。
 じつは、この月、周学長の一行が来日するのと入れ違いに、私は四度目の訪中の途についていた。私が、北京から「日本でぜひ、お会いしましょう」との希望を東京に伝えると、「時間を割いても再会を実現したい」と、周学長は応えてくれたのである。
 東京に帰ってお会いした日は、周学長が日本を離れる二日前であった。慌しい滞日スケジュールにもかかわらず、その端正かつ生彩あふれる顔つきには、秋毫しゅうごうも疲れの色はうかがえない。それに、初めて目にした周学長の背広姿は、颯爽として一段とスマートであった。
 私たちは、固い握手とともに久闊きゅうかつを叙した。三年半ぶりである。私は、度重なる北京大学での厚遇に感謝するとともに、離日を目前にされた周学長に対する送別の宴の意味も込めて、ささやかな食事の席についていただいた。
 歓談は二時間半ほどにおよんだ。北京大学と創価大学とのあいだの教育交流については、互いに、永続発展するように努力することを約束し合った。
 さまざまな話題のなかでも、やはり中国の教育、研究活動の現状にふれると、周学長は眉根に縦皺を寄せて厳しい表情をつくりながら、四人組の破壊行為を回想されていた。
 北京大学の学生数を、現在の八千名から、一九八五年までには倍増させたい。若き後継学徒の養成に力を尽くして中国人民の期待に背かぬようにしたい――等々、意欲的に語られる周学長の姿に、中国の未来の展望を輝かせるものがあった。
 これまでに北京大学には、延べ六千余冊の理工系図書を中心とした書籍を贈呈させていただいた。それが、少しでも役立つものなら幸いである。創大との教育交流も、これに資するところがあれば、と思う。
 互いに、両大学の未来像を語り合い、話は尽きるところをしらなかった。
 「最高に楽しく、愉快なひとときでした」――別れぎわ、周学長はそう言って、握手の手を差しのべられた。名残惜しい一夜であった。
4  本年(一九八〇年)四月、私は五度目の訪中に赴いた。
 とのとき、これまで積みあげてきた協議のうえに成った、北京大学と創価大学との学術交流に関する議定書に調印するという、記念すべき出来事があった。海外学術交流に活躍される周学長は、このときは訪米中であった。季羨林きせんりん副学長から「お会いできなくて残念です」との伝言をお聞きした。議定書の署名個所には、不在の周学長のサインが先に書き込まれてあった。その傍らに、私は自署した。
 それから四か月後、早くも北京大学からは顧海根こかいこん劉振泉りゅうしんせんというこ人の教官が、日本語研修のために創価大学へ派遣されてこられている。私も先日お二人に会って、周学長のお元気な様子などを懐かしくうかがうことができた。
 創価大学からも二人の学生が先方へ交換留学生として交流の第一歩として派遣されていった。
5  中国の近代化――。その未来構図は、決して単線的なものではあるまい。さまざまな困難があろうし、それだけ周学長の双肩にかかる責務は重いといわねばなるまい。
 周学長は、四十七歳のときに新中国の成立に出合っている。旧い中国も、新しい中国もつぶさに経験しているその近代的な頭脳を熱く埋めているものは「余生のすべてをわが祖国のために」という決心であろう。
 さる三月には、中国科学技術協会主席に選任されて、いま七十八歳。ますますお元気な、あの爽快な笑顔に、また接したいものである。

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