Nichiren・Ikeda
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遥かなるアンコールワット シアヌーク殿…
「私の人物観」(池田大作全集第21巻)
前後
1 広々とした会見室の壁面いっぱいに、大きな一枚の絵が輝いていた。ブルーの色彩でアンコールワットを描いた荘重な絵である。
四年前(一九七五年)の四月、北京でノロドム・シアヌーク殿下と会見したときのことである。殿下のことを思うとき、私は、この一枚の絵を忘れることはできない。一枚の画布に、十二世紀に建立され、石造建築としては世界最高の文化遺産といわれる雄大なクメールの誇りが収まっていたからだ。
2 北京の閑静な通りにカンボジア元首府を訪ねると、そこには警護の解放軍兵士が立つのみで、ひっそりと静まり返っていた。
建物は、以前は中国外交部(外務省)で、フランス大使館としても使われていたことがあると聞いた。瀟洒で西洋的な雰囲気をもっ建物だった。
会見室の入口のところで、殿下は穏やかな微笑をたたえて待っておられた。
視線が合うと、殿下は敬虔な面持ちで両手を前に合わせ、合掌された。カンボジアの長い仏教の伝統からくる慣習である。殿下も仏教徒であり、私は東洋人同士という思いを深くした。
3 「ボンジュール」
柔らかいフランス語でのあいさつだった。カンボジアはフランスの統治下にあった時代があり、殿下も留学されている。
部屋の一番奥に、ゆったりとしたソファが置かれていた。
並んで座った右手の壁に、あの青く深みをもったアンコールワットの絵があった。
折からのロン・ノル政権崩壊という新局面にあたり、私は「殿下は帰国されたら、まず人民に、なんと言われますか。第一声は?」と聞いた。
答えは沈んだものであった。
「今、母が重病で病床にありますので、私はただちには帰れません。……一か月以内には帰れません。母は数週間後に亡くなるでしょう」
4 母とはコサマク皇太后のことであり、敬虔な仏教徒として知られていた。
「私が帰国するときは、母をアンコールワットに埋葬したいと思っています。ですから、まずアンコールワットに帰ることになるでしょう」
殿下は言葉を継いだ。異国の地で死を迎えようとしているご母堂。その波瀾の生涯を思う心情が、側々と伝わってくる。
私は、十八年前、このアンコールワットを見学した。初めて仏教発祥の国インドを旅した帰路のことであった。うっそうとした樹木の大海のなかに、クメールの微笑といわれる遺跡群は、まるで奇跡のように存在していた。
密林の奥に、あまりにも神秘的と思われるこの石造建築は、時の経過を遺跡の表面にしのばせつつ、ひっそりと静まり返っていたものである。
トインビー博士はここを旅し「一生そこに座ったまま、その光景の美しさに陶酔しつづけていたいほどだ」と感嘆した。作家のアンドレ・マルロー氏も、青春時代に、アンコールワットを探求した一人であった。
殿下は、まずアンコールワットに帰りたい、と言った。
その発言の奥に、私は殿下の、かの地に寄せる愛着とともに、巨大な文化遺産のもつ重みを感じとった。それは単に過去の繁栄の証としてではなく、民族の象徴としての精神世界を支える重厚な存在となっているのであった。
5 話は流暢であり、情熱を奥に秘めた目が光を放っている。
通訳の関係で、殿下がまずフランス語で話し、それが中国語に訳され、そして日本語になった。
話に熱が入ってくると、二重通訳がもどかしいように、殿下は身を乗り出すようにして話された。
これからのカンボジアの方向、政治形態、当面する世界の課題などである。
ご自身の立場については、日本の天皇制のように国家の象徴として国際的な活動をしていきたい、とのことであった。
私は、その当時、関心を集めていたこととは別に、外国での五年間で一番つらかったことは何か、と尋ねた。
6 独立以来、殿下は国内の左右のバランスのなかで、ともかくもカンボジアを戦火から守り抜いてきた。しかし七〇年、欧州旅行中に故国でクーデターが起こり、以来、祖国には帰っていない殿下である。ロン・ノル政権からは「大逆罪」のかどで死刑を言い渡されていたこともあった。
「私は北京にくる前にも長期にわたって闘争をつづけてきました。以前はフランスの植民地主義と戦いました。クーデターとも戦いました。私は闘争に慣れています」
話しつつ、殿下は感情が激してこられたようだ。通訳が追いつかないほど、話しつづけた。この五年間、大きな苦痛が突きつけられていたが、それに耐えつ事つけたと強調するのだった。
お会いした日は、朝鮮民主主義人民共和国の金日成主席が北京入りした日でもあった。私はその前々日には鄧小平副首相と会談している。なにか世界が地響きをたてて動いているような北京での数日であった。
7 日本に帰ってまもなくコサマク皇太后の逝去が報じられた。会見から十日後のことである。アンコールワットへの埋葬は長く実現しなかったようである。一方で、鄧小平副首相の失脚が伝えられるなど、世界は激動していた。
その後の殿下の消息は、あまり伝えられなかった。三年近く外国人と一切会わなかったようである。
一人民として国家建設に寄与し、政治には関わりたくないという談話もあったほどで、第一線から退いていた。
しかし時の到来とともに、歴史は再び、この人を国際舞台に押し戻したようだ。カンボジアの首都プノンペンが陥落し、殿下はニューヨークの国連に出向かれたのである。
殿下は再び登場したが、前途には、何が待っていることであろう。
四年前よりも、さらに厳しい情勢が予想されている。
激動の人生はなおつづくであろうし、悲劇の人ともいえる。
強き意志と情熱の人でもある。
シアヌークとは「獅子の心をもっ人」という意味があるという。荒野を疾走する獅子のように、殿下は、道なき道を走りつづけなければならない運命にあるようだ。
私はとの二月(一九七九年)に、インドへ旅した。旅立つ前、鄧小平副首相もシアヌーク殿下もアメリカに滞在しておられた。
両者とも、お会いした後、歴史の激流のなかに、ひとたびは、杳として消息が伝えられなかった方である。
その二人が、再び現代史の渦中の人となり、殿下は、アメリカから北京に帰られた。その後、中国とベトナムは戦火をまじえ、インドシナ半島は激動をつづけている。
8 たった一度の出会いだったが、私は事の成否はともかく、殿下のつつがなき健康を祈りたい。とともに、今後、殿下が政争のためではなく、庶民の安穏を守る調停者としての行動に徹されることを、切に念願するものである。繁多のなかでも、おそらく殿下の胸中には、静寂にして雄大なアンコールワットの遺跡が思い描かれているにちがいない。
歴史の潮騒をよそに、アンコールワットの遺跡は、今も密林の奥にひっそりと沈んでいよう。壮麗な建物は、幾度か硝煙を浴びたこともあった。クメールの微笑が、現実の庶民の徴笑となるのは、いつの日であろうか。