Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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写真家三木淳氏  

「私の人物観」(池田大作全集第21巻)

前後
4  そんな三木さんが重病で、脳腫蕩らしいとうかがったのは、昭和四十八年一月のことだった。さっそくお見舞いに手紙を添えて、病院に届けてもらった。病気になると、誰しも弱気になることもある。三木さんは、手紙を聞いて、しばらく目に涙を浮かべておられたという。けれども、そんな生死の境にいるのに、ご自身で撮影した三羽の鶴の飛期する写真を私に届けようと手配しているところだ、と語っておられたという。また、かえって私の健康を気遣っておられたとのことであった。私は、三木さんの心情を有り難く心に抱きしめ、一日も早く再起されるよう、朝にタに祈念した。
 その後、昏睡状態を繰り返したり、瞳孔が開いたりで大変だったと聞く。周囲では、葬儀の準備が語られるほどだったらしい。しかし優秀な医師の方々の技術と三木さんの生命力とが、困難な手術を奇跡的な成功へと導いた。まさに九死に一生を得られたのである。あとで闘病記を書かれたのを拝見したが、手術の前後に失った意識のなかで″三途の川″を見たという。川の渡し場に地獄の案内人らしい男たちがおいで、おいでと手招きしている。足がそちらへ向いていきそうになるのを必死にとらえて「馬鹿野郎! てめえたちと一緒に行けるもんか。為残していることがもう一つあるんだ」と怒鳴って這いずり帰ってきたというのである。三木さんらしい、男のなかの男らしい気骨である。
5  同年五月のある夜、私は東京・白金台のご自宅に、退院してまもない三木さんをお訪ねした。気力は相変わらず確かだが、体力がともなわず、内心やや焦っておられるようにもお見受けした。しかし、大変に喜んでくださった。病院での苦闘をともにされた奥さんも、ひとまず安堵しておられる様子であった。
 それから三年後の五月、すっかり元気を取り戻して取材にこられた三木さんとお会いした。もともと感情量の豊富な人である。目と目が行き合うと、涙がきれいに光っていた。
 「お互いに、もう少し長生きしましょうよ」――そう申し上げて三木さんの手を握る私も、胸が熱くなった。
6  カメラを手にする者は、現象世界の奥の深い心に目を凝らす。そうすることは、自分自身の心をつかみ、表現することにほかなるまい。それは、すでに詩人であり、芸術家の行為である。
 三木さんは、詩人としての感受性豊かな皮膚と、トビ職人のように強壮な心臓と、子供のように純真な魂を併せもっておられる。今はますますお元気で大学の教壇に立たれるなど活躍されているようで、なによりと思う。死との対決という決定的瞬間を生命の映像に刻まれて、三木さんはいよいよ同熟味を加えられているようだ。

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