Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

″民主″の星 リンカーン  

「私の人物観」(池田大作全集第21巻)

前後
8  これらにみられるトーンは、明らかに宗教的使命感であるピリグリム・ファーザーズ(メイフラワー号で新大陸に渡った清教徒の一団)以来の、ジェファーソン等建国の祖父たち以来の――。それはR・N・ベラーのいうように「アメリカの伝統に非常に深くひそんでいる一つのテーマ、すなわち神の意志を地上で実現するという集団的、個人的な義務」(『社会変革と宗教倫理』河合秀和訳、未来社)であり、事あるごとに指摘される、アメリカ民主主義の復元力と呼ばれるものも、ここに由来するといわれる。南北戦争は、その伝統が直面した、最大の試練であった。その戦乱のなかに身を焼き、伝統を、新たな蘇生へと向かわしめたのが、リンカーンその人であった。彼の演説が極度に宗教色を強めているのも、当然といえばいえよう。
 また彼が、イエス・キリストに擬せられたり、彼の生涯が、必要以上に神話化、伝説化される所以もここにある。当時の、そして以後の人びとも、彼の言々句々に、聖書の言葉にも似た救世、回生の響きを聞きとったにちがいない。リンカーンは、多分、それと意識してはいなかったであろうが、アメリカ民主主義の精神を回生させる、壮大な歴史ドラマの主役を演じたのであった。
 彼は人間を愛し、同胞愛を叫んだ。しかしそれは、観念的、抽象的なコスモポリタニズムと違って、百折不撓の実践のなかから発した叫びであった。善かれ悪しかれ、アメリカの伝統にしっかりと根をおろした、生きた人間の声でもあった。
9  南北戦争以来百有余年、リンカーンの体現していた伝統の精神は、どれだけの命脈を保ちつづけているであろうか。それを判別するほど、私は彼の国の事情に詳しくない。ウォーター・ゲートの事件のとき、祖父の時代に帰れと声高に叫ばれていたのをみると、まだまだ生きつづけているのかもしれない。だが、ベトナム戦争という、精神史的には南北戦争以来の大試練が、数百年の伝統と使命感を、大きく汚してしまったことも事実といわねばならない。リンカーンが、今日生きていたとすれば、その顔に浮かんだ憂いは、いっこうに晴れないにちがいない。
 私の二十代のことであったろうか。ラジオが「私は奴隷になりたくない。だから奴隷を使う身にも、なりたくない」という趣旨の、リンカーンの言葉を流していたのを記憶している。福沢諭吉の「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」などと並べて、繰り返し放送していた。この偉大な憐欄と人間愛が、人類の頭上に陽の目を見るのは、いつの日であろうか。

1
8