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日蓮大聖人・池田大作

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孤高の哲人 デカルト  

「私の人物観」(池田大作全集第21巻)

前後
7  すなわち彼の掘り当てた基盤は、己自身のみ、よく拠って立つことのできる基盤であった。そこには″他者″の介在する余地は、ほとんどない。もとより彼は、良識や理性が、万人に公平に分配されていることを信じてはいた。しかしそれが、人びとの内面でどう繋がり、どう触発されていくかについては論じなかった。そこまでいくと、無意識の次元より発する感性の問題が不可欠となってくるのだが、デカルトは、積極的な関心を示そうとしなかった。例外は、親交のあったエリザベート王女、クリスチーナ女王との数多くの書簡と、晩年の『情念論』だけである。だがそれとても、二人の女性との私的関係のうえから、やむなく公にされているのである。
 思うにデカルトの孤高は、根無し草にも似た現代人の病的な孤高からみれば、よほど健全ではあった。彼の孤高は、世を嫌った厭世家のそれとは遠い。独居の地にしても、人目を避けた山林などではなく、殷賑いんしんを極めていた商都アムステルダムである。そこを拠点に彼は、多くの論敵と渡り合った。
 だが私には、その倨傲きょごうなまでの孤高が、どうしても孤独の影を引きずっているように思えてならない。影は、太陽が中天にあるうちは、あまり目立たない。日が傾き、黄昏時になると、しだいに黒く、長く伸びてくる。
 デカルトの時代は、乱世とはいえ、近代の力強い勃興の足音が迫っていた。その近代は、いまやあまりにも無残な姿をさらしつつある。影は身の数倍にも伸びて、まさに覆い尽くさんばかりである――。
8  ポール・ヴァレリー(フランスの詩人)は、デカルトの″コギト″を「精神の自負と勇気とに『目覚めよ』と呼びかける起床ラッパ」と形容している(『ヴァレリー全集』9所収「デカルト考」野田文夫訳、筑摩書房)。その通りであろう。しかしその音色は、今ではある種の就寝ラッパといえるかもしれない。安らかな眠り、そして新たな目覚めは、はたしてくるのか。ここに、現代のわれわれに課せられた、最大の課題があるであろう。同時にそれは、かの自立、独歩の巨人デカルトへの、最高の敬意ではなかろうか。

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