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日蓮大聖人・池田大作

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孤高の哲人 デカルト  

「私の人物観」(池田大作全集第21巻)

前後
6  私が、デカルトの思想遍歴に注目する最大の理由は、混沌に直面した彼の目が、まず″内″を向いたということである。自身「運命に、よりはむしろ自分にうち勝とう、世界の秩序を、よりはむしろ自分の欲望を変えよう、と努め」(前出、『方法序説』)たと述べているように、内面を凝視することが、彼の第一義であった。その点がパスカルと同様、彼を、当時の多くの科学者や数学者と分かつ点であった。彼らが、超一流の科学者でもあっただけに、この事実は、なおさら際立ってくるのである。
 事にあたって自らを省みるということは、人間誰しも困難なものだ。ややもすれば、混乱の渦中に巻き込まれ、右往左往を繰り返してしまう。時代が濃霧に包まれていれば、なおさらのことである。アテナイにおけるソクラテスとともに、デカルトも、ほかならぬ″汝自身″を問うことから出発したのであった。その掘削作業、内面への問いかけの深さが、以後、数百年にわたる彼の哲学の影響性を支えていたといえるであろう。
 だが、その掘削作業は、岩底まで至っていたであろうか。最近の深層心理学は、意識の極限ともいうべき″コギト″をさらに突き抜けたところに、なおかつ大海のような無意識、集合的無意識層が広がっていることを解明している。それは、縦に人類数千年の歴史を通じ、横に世界をも包み込む広がりをもっという。それに対し、デカルトの″コギト″は、あくまで個我であった。「私は考える、それゆえに……」の保証するものは「私」の存立する基盤のみであった。
 事実、オランダに独居してからの彼は、徹底して孤高、不羈ふきの姿勢を貫いている。群衆のなかへ出歩くことはあったが、交わりをもとうとはしなかった。祖国フランスで、オランダにおける彼の居所を知っていたのは、親友のメルセンヌのみである。デカルトの後半生を彩る論争のほとんどは、このメルセンヌを通して行われている。あるとき彼は、親友にこう書き送った。「よく隠れし者、よく生きたり」と。
7  すなわち彼の掘り当てた基盤は、己自身のみ、よく拠って立つことのできる基盤であった。そこには″他者″の介在する余地は、ほとんどない。もとより彼は、良識や理性が、万人に公平に分配されていることを信じてはいた。しかしそれが、人びとの内面でどう繋がり、どう触発されていくかについては論じなかった。そこまでいくと、無意識の次元より発する感性の問題が不可欠となってくるのだが、デカルトは、積極的な関心を示そうとしなかった。例外は、親交のあったエリザベート王女、クリスチーナ女王との数多くの書簡と、晩年の『情念論』だけである。だがそれとても、二人の女性との私的関係のうえから、やむなく公にされているのである。
 思うにデカルトの孤高は、根無し草にも似た現代人の病的な孤高からみれば、よほど健全ではあった。彼の孤高は、世を嫌った厭世家のそれとは遠い。独居の地にしても、人目を避けた山林などではなく、殷賑いんしんを極めていた商都アムステルダムである。そこを拠点に彼は、多くの論敵と渡り合った。
 だが私には、その倨傲きょごうなまでの孤高が、どうしても孤独の影を引きずっているように思えてならない。影は、太陽が中天にあるうちは、あまり目立たない。日が傾き、黄昏時になると、しだいに黒く、長く伸びてくる。
 デカルトの時代は、乱世とはいえ、近代の力強い勃興の足音が迫っていた。その近代は、いまやあまりにも無残な姿をさらしつつある。影は身の数倍にも伸びて、まさに覆い尽くさんばかりである――。
8  ポール・ヴァレリー(フランスの詩人)は、デカルトの″コギト″を「精神の自負と勇気とに『目覚めよ』と呼びかける起床ラッパ」と形容している(『ヴァレリー全集』9所収「デカルト考」野田文夫訳、筑摩書房)。その通りであろう。しかしその音色は、今ではある種の就寝ラッパといえるかもしれない。安らかな眠り、そして新たな目覚めは、はたしてくるのか。ここに、現代のわれわれに課せられた、最大の課題があるであろう。同時にそれは、かの自立、独歩の巨人デカルトへの、最高の敬意ではなかろうか。

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