Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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ホイットマンの人間讃歌  

「私の人物観」(池田大作全集第21巻)

前後
8  彼の後期『草の葉』の代表作に「印度への通路」という詩がある。これは単に精神的にインドを求めたばかりではない。インドに表徴される大宇宙への還元をも彼は願求していたと考えられる。「おお、さらに遠く、さらに遠くへの帆走!」(前出)。彼の詩はここで終わっているのである。生と死――彼は現実の極限にあって、なおかつおおらかに生き、そして死をもみつめていた。
 ホイットマンの目が、その奥深さを語りかけてくれるのもこのゆえではなかろうか。彼ほど涙した人間はいないのではないかと思う。涙する人間にして、初めて事象の背後がみえてくる。草の葉の美しさ、自然の摂理の不思議さ、そして、なにより人間の尊さが色彩豊かに浮かび上がってくるのではなかろうか。
 「涙」という詩は、もう一つのホイットマンをみせてくれるようだ。そこでの涙は、陽気な号泣や乾いた涙でも、安っぽい同情などのそれでもない。「夜、寂寞の中」の涙であり、「真暗な物淋しき」にあるものであり、「息も絶え絶えに泣き叫ぶその痛苦」である。そしてなにより「孤独」の涙である(『草の葉』有島武郎選訳、岩波文庫)。人生の深淵を垣間見た涙がそこにはある。
 その涙の彼方に、ホイットマンは広大な新天地を眺望する。死線を越えた人に生の輝きが鮮やかに迫るように、多くの傷兵に涙したホイットマンに、人間への限りなく大きい、そして不動の愛情が生まれたのだと、私は信じたい。人の心奥を地震のごとく揺り動かし、断固として立ち上がらせる精神の溶岩流が、こうしてできあがったのであろう。
9  その精神の光は、彼が逝って(一八九二年)八十六年、以前にも増して私の命の奥に輝いている。それは、生死一如の人生極限の道に迫り、怒濤の現実を生き、死をも包む愛情の光をみるからである。
 ――今「わたし自身の歌」の最後の部分が目に焼きついて離れない。
  わたしはわたしの好きな草から発芽するやうにと土にわたし自身を遺贈する、
  若し君たちが再びわたしに用があるならば、君たちの靴底の下でわたしを捜したまえ。
  君たちはわたしが誰れであるか、またわたしが意味するものは何であるかを知ることがあるまい、
  だが、そんなことは問題ではなくて、わたしは君たちに対してよい健康とならう、
  そして君たちの血液を浄めるものになり、またその力とならう。(前出、富田砕花訳)
 (ホイットマンの生涯については、「『ホイットマン詩集』白鳥省吾訳、彌生書房」の解説を参照)

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