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日蓮大聖人・池田大作

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中国の三つの家庭と生活  

「婦人抄」「創造家族」「生活の花束」(池田大作全集第20巻)

前後
1  労働の喜びを胸に
 昭和四十九年六月二日はよく晴れた日であった。私は北京郊外のある「人民公社」を訪れた。その折、一軒の農家に立ち寄り、しばしその一家の一員となった。趙広海さんという九人家族の家庭で、お子さんが六人、おじさんが一人、それに夫妻である。
 開口一番、趙広海さんは「今の生活は幸せになっている」と語った。解放前と解放後の目に見えた生活向上を実感込めて語る庶民の言葉は、いたるところで聞いたが、そのたびに真実の響きと、生活に深く根ざした庶民の強さを感じた。
 「解放前、学校へ行くことは思いもよらず、私は苦しかった。あまりの苦しさに耐えかねて、山東省から歩いてこの地までやってきたのです。郷里では地主の作男をしていた」
 彼はこう一気に苦しかった過去を振り返る。現在はというと、子供たちはすべて学校に行き、中学生三人、小学生一人と全員が希望に燃えていた。
 「解放前には夢のような、いや夢にも見ることのできなかった生活です」
 人生の年輪を刻んだ彼に、私は、親しみを込めて語りかけた。
 「もし毛沢東主席にお会いしたら、あなたは何をお願いしたいか」
 「希望は一つである。さらに人びとの生活を向上させたい。それには毛沢東主席の健康を祈るのみです」
 私はその言葉をさわやかな気持ちで聞いた。庶民の草の根の意識のなかに、毛沢東という一個の指導者像が身近な、生きたものとして存在しているのである。そしてこの一言のなかに、過去の苦渋に満ちた生活、現在の希望の風そよぐ生活、未来に向かう勇気が、集約されていることを表現していた。
 家庭における人間関係はどうであろうか、と私たち訪中団の一人が、家事と農作業のバランスと分担とを聞いた。よく調整を図り、家族が協力しあい、その点は非常にうまく運んでいるとの答えである。家庭内で対立しあうことがあるか、とも聞いてみた。「ええ、そうしたこともありますとも」と、趙広海さんは家族会議の効用を説いた。会議では家計から労働、生活の問題等、意見の対立を検討し、その結果、欠点があれば自己批判をする。子供にも誤っている場合は自己批判させる。
 こう書くと、かなりギスギスした家族会議の模様を連想しかねないが、実際には「娘のほうが年も若く、優れているので、意見を聞かなければならないことがよくある」という彼の言葉どおり、建設的な、しかも啓発的な家族座談会のようだ。一般に中国の家庭では、それぞれが立場に応じて役割を平等に分担しているようである。夫婦がともに働くので、買い物も交代で助けあうとのことだ。
 彼らは生産活動に従事するばかりでなく、社会主義社会の一員として、それなりの自覚と社会行動をうながされる。その一つが学習会である。農閑期は昼、農繁期は夜、月水金の三日間、一時間半ぐらい学習するとのことで、学習の単位は十~二十人という。老壮青一緒の場合も、青年は青年たちだけで、という場合もあるようだ。
 いずれにしても社会への視野と自己の責任を、こうした学習会をとおして把握していくわけで、閉ざされた家庭というイメージはほとんどなく、社会に開かれた家庭となっている。みんな集まると歌もよくうたうという。当然、社会主義建設の歌が多いようだが、民謡などもよく口をついて出てくるそうである。
 一年間でどういう時が最も楽しいか、の問いに対しては「取り入れの時が最も楽しい」と返ってきた。素朴に大地に生きる生活感情に、ほのぼのとした母なる大地の芳香がただよっている。労働の喜びこそ最も大きな喜びである、と胸を張る彼らは、その喜びが収穫時に凝縮され、自らの汗の結晶である農産物を、わが子を見入るような思いで手にするのであろう。
 喜びとか、生きがいというものは、他者から与えられるものではない。自ら見いだしていくものである。自らの内面に高まる歓喜の息吹なくして、生きがいはない。「人民公社」の農家には、それが息づいていると思えた。
 「男のお子さん、女のお子さん、それぞれどのようになってもらいたいか」 「国家の必要に応じられる人材になってもらいたい」──。
 こんな会話もあった。案内してもらったのだから、やはり優秀な農家なのだろう。しかし、これを優等生的発言ととるのは間違いである。彼らにとっては、新中国の建設を担うことが、確かな喜びとなっているのである。
 ふと見ると、農家の庭先にキュウリやナツメが植えられていた。この庭は自留地であり、一九六〇年の党中央の決定により、各家庭が一人当たり、耕作地の一パーセントをもてるようになったのだという。もっとも自留地はその時点の人数で決められており、増える見込みは今のところない。土に生き、土を愛する農民の心を汲んだ施策なのであろう。庭先のキュウリやナツメの緑が、澄んだ空と美しく調和していた。
2  夫婦げんかは子供が批判
 また、かつての唐文化の都、西安においても、七日、工場労働者のアパートを訪ね、家庭を訪問することができた。夫は董明義、妻は梁淑貞さんといった。子供は六人。部屋は清潔で、こざっぱりとしていた。奥さんは定年退職(男性は六十歳、女性は五十歳、ただし事務職は五十五歳という)しており、退職後も、それまでの賃金の七〇パーセントが保証されている。五人まで子供も働いており、家計には十分余裕があると言っていた。
 ご主人に夫婦げんかをすることがあるか、と聞くと、「矛盾はいたるところに存在する」と、これは意味深長な答えであった。夫妻は解放前「幼時から決められていて結婚した」と言い、それと「性格や見方がかなり違い、意見の衝突もある」と語る。主として子供について意見が対立するそうである。「私は一番上の子をかわいがり、妻は下の子をかわいがるため」とも言う。人情というものは、どこの国でも同じである。ただ、その機微をどこまで察し、とらえていくかが大切になってくる。
 子供に夫婦げんかをどうみるかと問うと、「そんなとき、父母を批判する」と笑みを浮かべて答えた。周囲に、はじけるような明るい笑いが広がった。
 「私たち二人はともに五十八歳。人生の大半は旧社会で過ごした。食べるものもろくに食べられず、着るものとてなかった。今は政治の面でも権利をもち、生活も豊かになりました」
 この家庭でも、私たちはこのようなしみじみとした話を聞いた。社会主義革命が定着した実質的な意味合いと、生活のうえの重みを、私たちはまたも知ったのである。彼らがこう語るときには、その表情は生きいきと、感謝にあふれている。その感情の延長線上に新中国への絶大な信頼があるようだ。じつに政治というものは、いやすべてのことが、こうした庶民感情を抜きにしては存在理由を失うであろう。
3  新中国の息吹
 上海は世界最大級の人口をもつ、活気に満ちた大都市である。ここでは十三日、曹楊労働者新村というところを訪れた。この村は一万五千世帯、七万人から成り、巨大都市ゆえ住宅事情が悪く、それを解消するために一九五一年の分村建設から発展してきた労働者のための新村である。現在では住宅事情は随分よくなっていると聞いたが、一九五一年から二十年を越える努力があったわけで、日本の都市状況を思うにつけ、長期的ビジョンこそ、社会建設の要諦ではないかと思った。
 この新村の町工場で、四十五歳以下の家庭の主婦のうち九五パーセントまでが働いているという。託児所や幼稚園など完備されているからこそである。私は新村の事務所で一人の定年退職者ともじっくり話し込んだ。その人は十三歳の時から少年労働者として働いた。
 「旧社会では抑圧をうけ、一日一日が苦しかった。解放前は……」と彼は言った。その言葉が衝撃的であった。「一本の草よりも劣っていた」──。
 そしてさらに、その人は言うのである。
 「私は年をとっても思想的には定年になってはならないと、引きつづき学習し、人民に奉仕する活動をつづけている。私たちは国の宝として尊敬されていますから」
 一本の草よりも劣っていた存在と、自己の来し方を青年に教える生きがいの存在。この二つのはざまに、なおつづいている中国革命があるということだ。私は彼の話のなかに、彼の人生の真実を感じとった。新村ができて入居した時の話が面白い。住宅に最も困窮していた人から入居することになった。一九五二年、初めて三世帯が入ることになり、選ばれて引っ越しをした。解放後、初めての労働者新村の誕生であり、期待も大きく、非常に話題を呼んだ出来事であった。労働者仲間は、彼の入居を祝い、ドラやタイコをたたいて、トラックを提供し、見送ってくれたという。
 そんな光景を思い浮かべ、私はほほえましさを禁じ得なかった。ドラやタイコの音にも、やはり新中国の息吹がありはしないか。──新村は拡大されていく。われわれの住宅事情もよくなるだろう。
 その先陣が君ら一家だ。おめでとう。そんな民衆の喜びをのせた入居だったのであろう。トラックがやってきた。ところが三世帯の家財道具、一切合わせて荷物は荷台の半分にも満たなかったという。引っ越し前は、工場付近の、七~八平方メートルの狭い掘っ立て小屋。夏は蚊やハエに泣き、雨が降ると閉口したという。何世帯もで水道の蛇口は一つ。いつも長蛇の列ができた。
 そんな回想を懐かしく語りながら、その人は、
 「私は上海で生まれ上海に育ち、今も上海にいます」
 とポツリと語った。
 「上海の生き証人ですね」
 と、私はしみじみとした心で賛辞を送った。
 新村からの帰途、私の目に、街路樹の緑が、鮮明に映ってきた。解放前のあの悲惨さから立ち上がり、いま七億以上もの隣国の民衆が、この四半世紀の間に、ともかく食は足り、家をもち、着るものも着、街に一人の物もらいも浮浪者もなく、子供はみな就学しているこの現実を創りあげた偉大さに目を閉じていては、二十一世紀の未来を語る資格はないと、私は思った。

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