Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

第三章 人類の輝く遺産  

「敦煌の光彩」常書鴻(池田大作全集第17巻)

前後
3  法華経の伝来
  ところで、池田先生は「中国敦煌展」の展示品のなかで、何に興味をもたれましたか。またご感想は何かありますか。
 池田 そうですね。百二十七点の展示品のうち、どれか一つを選ぶということはたいへんに困難なことです。ある学者は、シルクロードの至宝といわれるものばかりで、ちょうど宝の山に入ったときのように、目移りしてしまったと語っていました。
 私としては、やはり三十数点もの『法華経』の写本を展示していただいたことに、とくに心より感謝の言葉を申し上げたい。
 なかでも、北朝期の『法華経』は、羅什三蔵が漢訳して間もないころの写本とうかがっております。
 それから、なかに一点、図解本西夏文字の『法華経』が展示されていましたね。西夏の主要民族は、チベット系のタングート族で、西夏文字は十一世紀に創作されたと言われていますね。一つの民族が、自分たちの文字を作るということは、たいへんな事業です。さらに『法華経』を、その西夏文字に翻訳して読み、信奉していた。また『法華経』の三つの漢訳のなかで、この西夏文字の『法華経』は、鳩摩羅什の訳した『妙法蓮華経』によっているということですね。この史実にも『妙法蓮華経』が、民族を超えて広く信奉されていたことがうかがえます。
  莫高窟には、元代(一二六〇年―一三六七年)に造られた多くの土塔があります。土塔の骨格になるのは真ん中にある柱です。その柱の下の塔の基礎にあたる部分には、つねにさまざまな物が埋めてあります。そのために土匪や軍隊の破壊を受け、よく倒れたり、崩れたりしました。
 一九五九年に竇占彪が塔の基礎部分を修復したさい、土のかたまりみたいな包みを発見しました。最初は、たんなる土のかたまりかと思いましたが、手にとってみると、包みであることがわかりました。開いてみると、模様の印刷されている布地のなかに、西夏文字の木刻図解『法華経』が包まれていたのです。それは蔵経洞の数万にのぼる経文のなかにもないもので、とても貴重な発見でした。
 池田 私は一九六一年(昭和三十六年)に初めてインドを訪問いたしました。会長に就任した翌年のことですが、この旅の折、釈尊の成道の地であるブッダガヤーにもまいりました。中国はすばらしい歴史と文化の宝庫であり、インドは精神と哲学の宝庫ともいえるのではないでしょうか。
 この仏教発祥の地から、はるばると天山を通り、砂漠を渡り、中国に仏教が伝来し、さらに海を越えて日本に伝えられました。シルクロードは、長安とローマを結ぶ長遠な通商の道でしたが、もう一つの壮大な仏教の道、文化の道が、この地から大陸を貫き、日本へまで広がっていることをあらためて実感いたしました。その道は「精神のシルクロード」とも呼ぶべきでしょう。インド、中国、日本をはじめアジア諸国のそれぞれの時代に、精神文化の豊かな土壌となり、深い心の絆を結んだ仏教の伝来の道でした。常書鴻先生もインドに「敦煌芸術展」で行かれましたね。
  一九五一年(昭和二十六年)にまいりました。
 池田 仏教発祥地であるインドでの反響は、どのようなものでしたか。
  当時はビッグニュースでした。ネルー首相は、娘さんのインディラ・ガンジーと一緒に見にきました。僧侶も大勢、参観にまいりました。
 僧侶たちは模写絵と塑像にたいへん尊敬の気持ちをいだいていました。とにかく信仰心の厚い人々でした。
 池田 私はインドへの訪問から十三年後に、今度は貴国を初めて訪れました。この折、西安までまいりましたが、昔の長安の都であったこの地で『法華経』が漢訳されたこともあって、私にはとりわけ感慨深い旅でした。
 西域の亀茲国の人であった鳩摩羅什は、幼いときから仏法を学び、後秦王・姚興に迎えられて長安に入りました。それは西暦四〇一年のことです。そして姚興の保護のもとで多くの経典を漢訳しておりますが、なかでも『妙法蓮華経』は珠玉のような名訳で人類の偉大な精神遺産となりました。
  『法華経』と他の経典の内容は主にどこが違うと、先生は理解されていますか。
 池田 たいへんに鋭くて、大切なご質問です。そのうえ、『法華経』については、「文上」と「文底」とを明確に立て分ける必要があるのですが、敦煌の芸術を論じているこの場では、あえて省略させていただき、「文上」の『法華経』に限ってお答えすることにします。『法華経』が他の経典と比較して、根本的に違うところは、釈尊自身が菩提樹の下で悟ったところの“宇宙と生命の根源の法”を、そのまま説き明かそうとした最高の経典である、ということです。
 釈尊自身、悟りに達した直後、自分の悟った法(真理)は、あまりにも広大で深遠なため、ほとんどの衆生には理解できないであろうと考え、悟りの法を衆生に説くことを、一度は断念する場面がありますね。しかし、いわゆる仏伝で有名な梵天勧請によって翻意し、以後、四十余年にわたって、説法の旅をインド国内に展開することになります。だが、一度は説法を断念したほどの難解な法ですから、これを最初からそのまま衆生に説いたのではありません。「対機説法」といって人々の理解能力(機)をみては、それぞれの能力や苦悩に対応した教えを、当意即妙に説いていっては、人々を救っていったのです。
 こうして説法しつづけた釈尊は、最晩年、生涯にわたる民衆救済の総仕上げとして、さらには、自分自身の滅後における人々への遺産として、かの菩提樹下での悟りの法を、そのまま、ありのままに説き明かすことにより、釈尊自身が、前々から本当に説きたかった「真実」を明確にしたのです。これが『法華経』という経典です。
 これに対して、『法華経』に対する他の諸経典は、釈尊が人々の理解能力をみては、それぞれの能力や苦悩に応じて、そのつど説いていったものですから、『法華経』という「真実」から見れば、「方便」の教えにすぎず、高低浅深、種々雑多な教えから成っている。たとえば、あるときは声聞や縁覚では仏になれない、と説いたり、女性や悪人は仏になれない、と戒めたかと思えば、菩薩になることを奨励したりしています。
 このように、『法華経』と他の諸経典では、その成立の背景と内容において、決定的に違うのですが、少し整理して申し上げれば、第一には『法華経』が、釈尊の悟りの“法”を、全体像のままに、ありのままに説き明かそうとしたのに対し、他の諸経典は悟りの法を、部分部分の側面から垣間見た教えにすぎない、ということです。
 第二には、『法華経』は宇宙と生命の根源の法を説き明かした。ということは、生きとし生けるものの悉くが、この根源の法に基づいて生きているということを明らかにしたことでもあります。ここから、『法華経』は生きとし生けるものの絶対の平等を説き明かしたことになります。他の経典では、女性や悪人、声聞・縁覚の人々は仏になれない、として差別してきたのに対し、『法華経』では、すべての人々が仏になることができると説いていることからもこのことは明らかです。

1
3