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日蓮大聖人・池田大作

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日本は“公害実験国”か!  

「私はこう思う」「私の人生観」「私の提言」(池田大作全集第18巻)

前後
10  言うまでもなく、そうした住民においても、意識の変革は不可欠の要件である。もし、企業のおかげでこの町が経済的に潤っているのだから、われわれは、企業に対して文句を言えないのだなどという考え方があっては、Gメンの役目は務まるまい。万一、会社が出ていったり、つぶれて、町が経済的に打撃をうけるようになるとしても、生命の危険にさらされるほうが、より不幸である。たとえば、人が重病になり、生命の危機におよんだ時には、治療を最優先して、一切をそこに注ぐであろう。生命の増長を図ることが、本当の幸福であり、そこに全力、全英知を注いでいくことが正しい方向であると思う。また健康を回復するための出費を考えれば、経済的にも、そのほうが安くつくとも考えられる。企業側にしても、莫大な補償金は大変な痛手であるはずだ。ただし、これは極端な場合であって、公害をなくすことを絶対条件としながら、しかも会社がつぶれないために、特別に融資したりするといった妥協策は、なされうる余地があって当然である。
 現在、環境汚染に対する規制策として、環境基準が定められているが、これも、幾多の学者によって指摘されているように、残念ながら、かならずしも、生命の安全を保持できるものではない。学者といっても、厳しい悲観的な見方をする人や、楽観的な見方をする人があり、さまざまである。行政にたずさわる人の多くは、企業の利益を守るため、どうしても、楽観的な意見に傾きがちである。政府などから出されている環境基準というものは、だいたいそうした楽観的な説によっているようだ。
 私には、かりにも多くの住民の生命にかかわる問題が、果たしてそんな考え方で扱われてよいのかと、疑問に思われてならない。生命の安全を守るためには、最も厳格な態度で臨むのが当然である。同じ学者のなかで、悲観論者が少数派であったとしても、その人々の意見を重視し、それをよりどころとして、対策を立てるのが、住民の生命を預かる行政担当者の義務ではあるまいか。生命の尊厳は絶対的なものであり、相対的に、力関係で取り扱われてはならぬ問題だからである。法律家も、その観点に立って、強力な法の立案、法規制に着手すべきである。
 公害について、ようやく政府も真剣に取り組み始めたように見うけられるが、それは、決してポーズだけであってはならない。公害についての欺瞞は決して許されない。しかも公害の深刻な実態と考え合わせると、残念ながら政府の姿勢は、まだまだ本格的とはいえない。たとえば、それが端的に教育にあらわれている。
 小・中学生の教科書には、公害とは無関係に、経済大国日本を誇るような内容が豊富に盛りこまれている。繁栄といっても、虚像の繁栄であり、世界でも最大の公害列島になっていることなど、いささかも触れていない。日本の今後の問題を、シビアに見つめさせるような方向は、まったく示していないようである。よい面だけを誇示し、悪い面には目をふさがせるような教育は、未来を建設していく青少年に、正しい認識を与えることにならない。これが、本来の教育のあり方ではないこともまた、自明の理である。
 そのような政府の行き方にあきたらず、公害についての教育を行っているところもある。しかし、ある所へ行ってきた人の話を聞くと、そこでの教育は“公害に負けない体を鍛えよう”というほどの内容であるという。子供に、もっと基本的な、人間と自然の仕組みを教えるような方向の教育が、図られなくてはなるまい。
 このことをとおして感ずることは、現代の指導者が、未来に何を残し、何を与えるかという展望の著しい欠如である。
 今こそ、未来への明確なビジョンを、指導者は衆知を集めて定むべきである。特に、日本は、あたかも“公害実験国”みたいになってしまっている。かつて核の洗礼をうけたのも日本であれば、今、公害への最大の試練に立たされているのも日本である。日本が、今後、公害にどのように挑戦していくかは、世界的な関心事であり、国際社会での信頼も、この点にかかってきていると、私は思う。
11  さらに、これは、早急にできる問題ではないが、学問のあり方についても、大きい変革が行われなければならない。これまでの西欧の学問は、事象を既成の知識に分析し、そこにとりだされたものを、その事象の本源としてきた。その過程において、そうでないと考えられるものは、どしどし切り捨てられる。そして、本源とされるものについて、これを人工的につくりだしたり、または、人為的に強化することをめざして、種々の技術や産業が発達してきたのであった。
 ところが、生命現象の場合は、生命のあらゆる要素が複雑にからみあって一つの有機的な体系をつくり、活動を行っている。本源的でないと思われたものも、実は、それなりに不可欠の役目をもって、その生命体の維持に参画しているのである。そうした生命事象の特質を無視して、単純な要素に分解し、捨象していくということは、たいへんな誤りを犯す結果になってしまう。
 その意味で、これからの学問の方向として考えなければならないのは、総合的な把握ということではないだろうか。そして、個々の要素に分断し抽出するのでなく――もちろんその面も必要であろうが――それらの要素がどう関係しあっているか、そして全体としてどのように調和しているかという観点から、全体的に迫っていく行き方を確立することである。
 科学は、公害をいかに解決するかという問題に重大な責任をもっているし、より以上に、公害を生まない科学技術文明の建設をめざしていくことが要請されよう。さらに、自然が本来もっている浄化力、生産力を高めていくにはどうすればよいかという点にも、科学は新しい分野を開拓すべきである。と同時に、人間の生命力を豊かにしていく方向も模索すべきである。
 この人間と自然の本来的な力を調和し、総合し、高めていく、いわば“人間自然学”ともいうべき学問体系の確立を、提案したい。そのためにも、総合的把握の方法は、かならずや不可欠の問題となってくると思う。
 また、科学者は、科学の成果が技術化される場面において、それによって生ずる弊害を明らかにし、この弊害を防止するための処置が行われているかどうかを厳しく監視すべきである。そして、そのような科学者の警告発言に対して、政府、自治体の行政機関も、率直に耳を傾け、もし、これに従っていない企業があれば、強力に指導あるいは規制するといったシステムが確立されなければならない。
12  なお、公害の問題に関連して、ひとこと、所感を付け加えさせていただくと、現在のところ“公害”で最も関心の的になっているのは物理化学的なものであるが、やがて近い将来には、コンピューターなどによる、精神的な障害、束縛も、新しい“公害”を生みだしていくにちがいない。それらがおよぼす影響は、人間精神のマヒと不具化であり、肉体にかかわる“公害”よりも、はるかに深刻で恐るべきものとなろう。人間の思考や感情を自由に操る、史上かつてない独裁政治を現出してしまうかもしれない。しかも、それは、科学文明の発達という美名に隠れて、民衆からは、盛大な歓迎をうけながら、いつのまにか絶対的な権力を握っているということになるだろう。
 これを見破り、食い止めるためには、肉体的な側面だけでなく、精神的な側面からも、人間の健全なあり方とはどのようなことかを考え直し、一つの技術開発が、この人間存在に対してどういう意味をもつかを思索していかねばなるまい。そして、危険なものを感じたら、決して黙っていてはならない。
 ともあれ、こうしたあらゆる脅威から、肉体と精神の健康と安全を守るためには、われわれ一人一人が“目覚めたる人間”として、その力を合わせて戦い、人間の尊厳を確立していかなければなるまい。目前の利害や、イデオロギーや、立場の相違を超えて――。

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