Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

私の家庭  

「私はこう思う」「私の人生観」「私の提言」(池田大作全集第18巻)

前後
4  小学生の三男にとって、高校生の長男と、次男は、もはや遊び相手にならないらしい。いきおい、たまに早く帰った親父は、格好の相手であるらしい。
 ある時、タバコをくわえて、マッチを捜していると、突然、三男にピストルを突きつけられた。無防備のうえに、不意打ちではかなわない。完全にホールドアップ、両手をあげようと思った瞬間、「ドカン」とピストルが文字通り火を噴いた。見ると、ピストルの形をしたライターだった。目を白黒させる親父を尻目に、“してやったり”と笑いころげる。変哲もない話だが、そうした子供の、伸びのびとした振る舞いが、親にとっては一番うれしいものである。
 この三男は、末っ子ということもあって、わが家の王様である。この王様、だいぶ以前から、天体に凝りだしたらしく、夜になると望遠鏡をのぞきこんで離れない。妻は、早く寝かせようと苦労するらしいが、一度や二度の警告では、とても耳をかさぬようである。
 望遠鏡をせしめるときが、またたいへんだった。望遠鏡といっても、小学生が欲しがるのだから、二、三千円くらいのものでもと、たかをくくって、買い物に応じたのが妻の失敗だった。予想したものより数倍もの大きな望遠鏡を、売り場で目ざとく見つけた王様は、その前を、一歩も動こうとしなかった。動かないどころか、しまいには、その前に座りこんでしまった。要求貫徹まで座りこむ労組顔まけの実力行使である。
 こうなると、なるべく安く済ませようとする賢母の説得も、経営者のそれに似て合理性を欠き、サッパリききめがない。結局、妻は、妥協せざるをえない羽目に追いこまれてしまったという。
 大得意の三男坊は、それからというものは、星が出ると、望遠鏡にかじりつきだした。初めのうちは、どうせ三日坊主だろうと思っていたが、どうしてどうして、それから、かれこれ二年余りもつづいている。子供のすることだからという気持ちが、どうも抜けなかったこちらが、今では反省させられ、根気のよさに、むしろ頼もしさを憶えている。
 彼を、魅了した原因は、どうやら土星にあったようだ。買って、まもなくのぞいていた天体望遠鏡で、土星の環を発見したのが、やみつきになったものらしい。彼にとっては、少なからぬ驚きであり、感動であり、きわめて神秘なものに映ったにちがいない。
 子供のころ、一度、脳裏にやきつけられたものは、決して忘れないものである。人間の一生を考える時、それを決定づけるのは、少年期のわずかなきっかけによる場合が多い。科学者も、政治家も、芸術家も、身近な環境のなかで、ほとんど偶然にちかいチャンスが、その人の心に大きな影響を与えていく。
 私は、子供が、将来何になるかは、まったく、子供たちの自由意思でよいと思っている。それが、どういう方向のものであるかは分からないが、伸びようとする若い芽を、まっすぐに成長させてやりたいし、その環境づくりだけが親の役目だと思っている。いちおう高価な望遠鏡ではあったが、夢中になって、夜のふけるのも忘れて、星を捜す姿を見ると、決して高い買い物ではなかったと思うのだ。清らかな、悠久の星の光が、彼の心に焼きついて、生涯、輝きつづけていくにちがいないからである。
5  「王国を統治するよりも、家庭内を治めることのほうがむずかしい」とは、古来からの格言である。
 一国の繁栄の柱が、経済であるとすれば、家庭においても同じことがいえよう。最近の物価高騰を思うと、どの家庭でも、家計は決して楽ではない。主人の持って帰る給料は、つねに物価の上昇に追いつかない。そこから、自然に妻の愚痴がでて、家庭を暗くする因となってしまう。
 たしかに、限られた経済条件のなかで、家計をやりくりするのはたいへんなことである。ではいったい、豊かな家庭生活とはなんであろうか。果たして、経済的条件さえ満たされ金さえかければ、幸福な家庭が築けるであろうか。経済発展によって、しだいに恵まれてくる未来社会にとって、つねに問題として提起されるのがこのことである。
 ――物質と精神を、どう調和させるかという文明の課題は、実は、足もとの家庭生活の問題から始まるといっても、過言ではあるまい。
 先日、久しぶりに早く帰宅した。私の姿を見て、子供たちは、なにやら慰労し、歓待するための催し物を考えだしたらしい。居間の気配が、いつもと違っている。
 やがて、呼ばれて行ってみると、壁一面に敷布のスクリーンが掛けられている。どうやら、8ミリ映写会をやろうというのだろう。観客である私のために、家中総動員で設営した様子であった。そういえば、子供たちが旅行に行った時、親類からいただいた8ミリで、あちらこちらの風景を、撮してきたという話は聞いていた。
 上映開始を待つ時間は、にわかづくりのスクリーンをしげしげと眺めるしかない。狭い家ではあるし、一生懸命苦労して、吊った努力は、ほほえましい。そのなかで、敷布を吊った無粋のヒモに、遠慮がちに、小さなリボンの花が結んである。なにか買い物の包装に使われたリボンらしいが、にわかづくりをいかにもはじらうような、ほのぼのとした温かさが感じられていかにも可愛らしい。
 電気が消されて、スクリーンに子供たちの傑作が、つぎつぎと映しだされていった。そんななかでも、そのリボンの印象は、私の脳裏からなかなか消えなかった。あとで聞いたところ、子供たちの発案による映画会だったが、リボンだけは、妻の発案であったという。
 家庭に、価値創造がなければ、楽しさはないと思う。それは、物の豊かさとは、まったく質の違った、心の豊かさともいうべきものであろう。
 一枚の見なれた絵でも、時々置き場所を工夫すれば、家の中が一変し、みずみずしく新鮮になる場合もある。家庭の愛情も、決して観念にとどまるものではない。かならず行動をともなうもので、なんらかの形となって表現されるものである。
 それは、たとえ家中が揃う、一家団欒の時間が少なかろうと、そのわずかの時間を、数倍の価値あらしめるものにすることができると思う。また、そうした珠玉のような、思い出をつくりだしていける家庭こそ、子供たちにとっても、なによりの財産であるといえまいか。

1
4