Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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愛に生きる  

「私はこう思う」「私の人生観」「私の提言」(池田大作全集第18巻)

前後
2  二人が、家庭という、きわめて現実的な、共通の生活の基盤に立たない間は――つまり、単なる恋人同士である段階では、わがままを言っても、それほど衝突することはないであろう。しかし、夫婦となると、一方のエゴイズムは、かならず他方の犠牲をともなわずには成り立たない。したがって、夫婦間の愛情は、おのずと、みずからを犠牲にしてでも、相手に尽くしていくものとならざるをえない。特に、妻にとっては、夫が職場にあって、存分に働けるように、これを支えることが役目である。その意味では、妻の役割は、いかにも損のようにみえるが、夫は夫で、職場では、それ以上に自己を抑え、屈従を余儀なくされていることも理解しなければならないと思う。
 恋人の場合は、愛というものをきわめて純化された形でとらえるのに対し、夫婦の、このように現実の生活が厳しくからんだ愛は、ともすれば、不純なもののようにみられやすい。だが、それは浅い考え方だと、私は思う。深い愛情で結ばれた夫婦にあっては、家庭生活という現実の一切が、二人の愛の絆を強め、さらに深めていく、複合的な糸となっているといえまいか。
 また、自分を何かのために捧げるということは、現代の若い人たちには、まるで封建的な生き方のように思われるかもしれない。しかし、これも、民主主義、近代主義ということを、権利の一方的な主張とのみとらえる、誤った考え方だと思う。人間が社会生活を営んでいくためには、なんらかの自制と、自己犠牲は必然的に要求されていくものである。権利と義務とが、表裏一体になっているのは、このためにほかならない。
 ただ、ここでいう自己犠牲なり献身的な愛が、いわゆる封建的な女性の抑圧と異なるのは、みずからの主体的な意思が――そのことに関して発言権をもっているかどうかという点にある。封建制度が、女性にとって、かくも暗く、陰湿なものとされたゆえんは、そこに女性の主体的意思が、まったく認められなかったからではないだろうか。
 私が、現代の生きがいとして、献身的な愛をあげるのは、そのような、制度的あるいは周囲の圧力によって押しつけられた自己犠牲をいうのでは決してない。それはもはや犠牲ではない。むしろ自己蘇生ともいうべきであろう。生きがいとは、自分が自分の理性で、そこに理想を見いだし、自分の主体的な意思で、自己の生命を燃焼させきっていけることである。それは、あくまでも主体的なものであって、主体性が失われれば、もはや、そこには生きがいはありえないであろう。
 生命は、つねに完全燃焼を求めてやまない性向をもっている。問題は、いかなる理想、いかなる対象のために、燃焼するかである。
 その燃焼させるに足りうる理想を見いだすことができず、精神的にも肉体的にも、不完全燃焼を強いられつづけると、変則的な形で、突破口を求めようとする。ヒステリーはその極端な例であろうし、いわゆる教育ママの子への盲愛も、その一つであろう。
 夫のため、子供のために、近隣のために、さらに、自己の主義の道に生きゆく妻は、女性として、人間として、最も幸福であり、はた目に見るだけでも、清々しい、一服の清涼剤である。

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