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日蓮大聖人・池田大作

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慈悲の医学への提言  

「私はこう思う」「私の人生観」「私の提言」(池田大作全集第18巻)

前後
2  ともあれ、医術は、やはり昔も今も変わらぬ“仁術”であろう。そして、医師のよって立つ基盤は、理性の座であるとともに、それ以上に人間の座でなくてはならない。いな、生命の座といってもよいだろう。
 信頼と等価のものは、愛情しかない。仏法は、この愛情というものを、より深く慈悲と説いている。慈悲とは、抜苦与楽の意であるが、その苦を抜き楽を与えることに、医学の本来の目的があるような気がしてならない。
 私は医学に造詣が深いわけではない。しかし、少年期より身体が弱いために、病気で苦しむ人の気持ちが、ひしひしと迫ってくるのである。人間一人一人、かけがえのない生命である。それを蘇生させる医学、医術は、まさに慈悲の体現でなくて何であろう。
 私の言っていることは、少なからず古めかしい表現かもしれない。しかし、近代的な合理的な“白い巨塔”に、この美しい精神がいつまでも失われないでもらいたい、と祈る一人である。
 医学のたどってきた道は、人間勝利の輝かしい道程と思われた。だが、果たして、本当に“人間の勝利”だったといえようか。人間性の一面、すなわち“理性”の勝利だったのであり、人間の全体性のそれではないように、私には思われる。その一分の勝利に酔いしれている時に“人間全体”の敗北の姿さえ、のぞかせてしまったといえるようだ。
 私は新しい医学への示唆として、慈悲の医学を提言しておきたい。“苦を抜き、楽を与える”――この簡単な言葉の中に、生命の学としての医学の復権の道があると、信ずるからである。
 ここに一人の病者がいる。その病気を克服する力は、結局は、患者の生命の中にあるともいえる。その生命の力を引き出すためには、限りない激励が必要であろう。単なる言葉ではない。医師自身の人間性が、病める人をいかに、力強い響きで、勇気づけていくことだろうか。
 また、この抜苦与楽ということをさらに応用して考えれば、苦を抜くとは、病苦の克服であり、楽を与えるとは、健康の増進であるともいえよう。医学は、慈悲という基盤に立つことによって、この両者を満足させるものとなるのではあるまいか。
 苦悩の解決のみでなく、進んで生命を溌剌たるものにしていく。――ここに、未来医学の課題があるように思えてならない。
 単なる慰めではない。厳しい現実に立ち向かう生命の力強い鼓動、調和あるリズムをつくり伸ばしていけるようでなくてはならない。慈悲とは、本来、強い積極的な姿勢なのだ。
 法華経という経文には、仏を良医に譬えている。最高の慈悲の人格を――仏というのである。仏像や絵像をさしていうのではない。現に生きる人間精神のなかに、慈悲が貫かれることが仏法である。
 医学の再生の道は、人間再生の道である。それはまた、病める社会の再建の道であるかもしれない。

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