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日蓮大聖人・池田大作

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宗教と科学精神  

「私はこう思う」「私の人生観」「私の提言」(池田大作全集第18巻)

前後
1  宗教は、無知のうえに成るものではない。
 宇宙の真理、生命の実相は、深く探究すれば探究するほど、そこに広大な未知の世界があることが分かってくる。そして、自己がいかに無知であるかに、思いをいたさざるをえなくなるものだ。
 ある人が言った。――科学が発達すればすべてが分かるというのは、科学を知らぬ人の独断である、と。むしろ、真実の科学者は、真理の世界が、いかに広く深いかを知り、謙虚な態度でこれに向かうことを忘れない。
 この両者の違いは、古代ギリシャのソフィストとソクラテスの関係に対比できまいか。ソフィストは、なにもかも知りつくしているかのごとく振る舞い、ソクラテスは、彼らより遥かに知っていたが、それだけに、未知の世界の存在に気づいていた。 彼は、みずからの無知を知っているだけ知者であると述べ、みずから知を愛する者と称した。
 仏教では、なんでも知っているかのように思い上がることを増上慢と呼んで、厳しく戒めている。自身の未熟を自覚し求めゆく人を有羞の僧という。求道精神とは、この、どこまでも求めてやまぬ向上精神を言うのである。
 しばらく前のことであるが、ある新聞の記事に、ソ連で科学探究にたずさわる――若手研究者のあいだに、新しい宗教が芽生えていると報道されたことがあった。研究をすすめればすすめるほど、この宇宙の絶妙の機構を成り立たしめている、本源的な法の存在に、畏敬の念を、かれら唯物論者すら禁じ得なくなってきたという。
 これは、人間心理として当然のことであり、本当の科学者とは、そういうものだろうと、私も思う。そういえば、こと共産圏にかぎらず、わが国でも、湯川博士などは――宗教に対して、深い関心をもっておられることは有名である。そして、アインシュタインも、宗教に大きい期待をかけていた。
 多くの無関心の人は――人間が月世界に到達し、いわゆる宇宙時代の開幕をみた今は、もはや宗教の拠りどころはどこにもなくなった。宇宙は、人間にとって、神秘の世界の、最後にのこされたものであったから、その神秘のベールがはがされたことは、神秘性を基盤とする宗教にとっては、その土台を奪われたのも同然である、などというにちがいない。
2  しかし、それがまったくの誤解であることは、前述したことからもあまりにも明白であろう。なかんずく仏教は、すでに三千年も前に、今日の科学の発達によって、ようやく確証をつかむことができたほどの、卓越した宇宙観を説ききっているのである。
 その一つに、仏教では、宇宙を構成する一つの単位として、三千大千世界というものを説いている。三千大千世界とは、太陽、月、地球を含む、一つの世界を一小世界とし、これが千の三乗個集まったものをいう。とすればこれは十億になるが、他の一説では、十兆になる計算の仕方もある。ここで、一小世界とは、一つの太陽を中心とする一恒星系であるから、三千大千世界とは、恒星の十億――ないし十兆個もの集まりを意味することになる。
 今日、銀河系宇宙を構成している恒星の数は、約一千億とされている。数のうえでの違いはあるが、それは、このような星団を想定した、識見の正しさをいささかも傷つけるものではない。
 しかも、このような星団は大宇宙の中に無数にあり、宇宙は、果てしなく広大なものであるとの考え方を前提にしているのである。
 法華経には、五百塵点劫、三千塵点劫といって、この三千大千世界をすりつぶして粉とし、その粉の一粒、一粒を、無数の三千大千世界を過ぎて落としていくという話が出てくる。宇宙の果てしない広大さを考えなければ、こうした話は出てこないであろう。
 仏教の宇宙観からみると、月への到達は、ようやく庭先に出たことになってくる。やがて、科学の発達は、惑星旅行や他の恒星系への探検も、可能にしていくかもしれない。だが、それすら、一つの三千大千世界の枠を出るものではないようである。
 ひるがえってキリスト教世界においては、その中世にいたるまで、宇宙は巨大なる歯車によって回転運動をしているという――今日からみれば、面白い宇宙観が支配していたと聞く。地球(この場合“球”というのは妥当ではないかもしれない)は不動で、天が動いているとするプトレマイオスの説は絶対とされ、地動説を唱えたコペルニクスやガリレオは、異端とされた。
 天体を動かす歯車説は、不規則な運動をする惑星の軌道を説明するため、ついには八十にものぼる歯車を考えなければならなかったという。このような宇宙観にたち、宗教が今までの人類の精神を指導してきたのだと、ある科学者は慨嘆している。
 宇宙時代が到来し、人間が大宇宙を自在に飛びまわることのできる時代になったとしても、人間の精神を指導する、力ある宗教が必要であることは変わるまい。
 むしろ、そのような時代こそ、真の宗教はいよいよ必要性を増すといってもよい。未来の人類は、広大無辺の宇宙への認識が深まれば深まるほど、この宇宙の実態を余すところなく説ききり、同時に科学では果たすことのできない、生命の不可思議と尊厳性を確立した深遠なる東洋仏法の存在に、偉大な指導性と心の拠りどころを求めゆくにちがいない。

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