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日蓮大聖人・池田大作

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友情について  

「私はこう思う」「私の人生観」「私の提言」(池田大作全集第18巻)

前後
1  友情を抜きにして、青春は語れない。友情は、青春を彩る、最も美しい花でもあろう。
 青春時代を振り返るとき、恋愛の想い出は、時として、甘さよりも苦さが先立つものである。だが、友情の想い出は、爽やかな懐旧の情を呼びおこすのである。
 人生には、その人間形成の時代に応じて、さまざまの種類の友人ができる。物ごころがつきはじめたころの“幼馴染”……小学生のころの“学友”……青年時代の親友……社会人となってからの同僚、遊び友だち、飲み友だち……老年に入ると“茶飲み友だち”等々。
 いずれの種類にせよ、友だちとは、利害もなく醜いかけひきもともなわない、純粋に、人間と人間との真心で結び合った間柄である。もちろん、それには、互いの理解の浅い深いや、友情に賭ける姿勢の強弱の違いがあろう。
 少年時代のそれは、いまだ、互いを理解しあうには、あまりにも未熟である。成人してからの友だちづきあいは、いわば、便宜主義的色彩が強くなってくる。つまり、機能に応じて、友だちを使い分けるようになってしまうことだ。全人格的に信頼しあうには、互いに、あまりにも“人間”を知りすぎているからかもしれぬ。
2  青春時代の友情は、ある意味で恋愛の序曲であり、みずからも人格を傾けるし、相手にも全人格的信頼を期待する。人間の尊さを知るうえでの貴重な一歩であり、それ自体は、かりにはかなく消えても、その経験は、一生を左右するほどのものである。真実の友情の経験をもたない人は、人間として不具となるといっても、私は、決して言いすぎではなかろうと思う。
 信頼感と、信頼を期待する心で結ばれた友だち同士は、互いが互いにとって、鏡なのである。“自我”というものを意識的にみつめることができるようになったのが、青春期だ。友をもち、友を信ずるとともに、みずからも友の信頼に応えようと努力する。それは、おそらく、自分というものへの変革に挑む、初めての経験であるはずだ。
 幼少のころ、彼をとりまく家族や学校の教師は、時には叱られても、ともかく“わがまま”を言える相手である。彼の胸の中には、まだ“自我”というものの明確な映像はない。
 青春期になって初めて、それが、映像としてとらえられるのであり、同じ人格形成の途上にある友だちを、鏡として活用できるだけの意識段階に達するのである。
 言うまでもなく、文明社会にあっては、人間関係が生活環境の大部分を占めている。人々の織りなす複雑にして微妙な関係性――これをどれだけ理解し、どのように対処するか。人生の知恵といわれるものは、ここにあるといってよい。
 友だちは、形式的な飾りや、欲望に支配された野心に汚されない、純粋無垢の、最も人間らしい人間関係である。生身の人間としての相互理解は、人生においての不可欠の基盤でもあろう。
 将来、社会人として経験する、――会社の先輩、後輩も競争相手も、表面にみる姿は、千差万別であるが、その基底に人間としての理解があってこそ、初めて、それを自己の成長に活かしていくこともできるのではあるまいか。
 現代社会は、人間が互いに人間として理解しあい尊敬しあうことを、困難にしているようになってきた。それは、技術優位、組織優位という、現代文明の基本姿勢からくる結果でもあろうが、一つには、人格形成の大事な段階における友情関係の欠如に、その原因がある。
 激しい、受験競争――そのなかを、教育ママや、学校教師に尻をたたかれ、ガムシャラに勉強しなければならぬ青春には、真の友人をもつ時間のゆとりすら許されない。いな、競争の人生では、本来、無二の親友であるべき者も、憎い敵でしかなくなる。この最も、熾烈をきわめる大学受験の準備期間が、十五歳から十七歳ごろであるところに深刻な問題の根がある。
 同じ人間として、温かな心と心の触れあいを保っていくことがいかに大事かを、彼らは知らないままに成長していく。大学紛争にみられた、教授や社会に対する学生たちの態度は、たしかに人々の非難するように、いわば“小児的”なわがままを基調としていたともいえる。しかし、それを彼らの責任とするのは、あまりにも酷である。
 そうした発想や対処しかできない人間に歪めてしまったのは、ほかならぬ現代社会であり、大人たちだったからである。この深い反省なくして、問題の究極的な解決はありえぬし、未来の健全な建設も不可能といわなければなるまい。
 友情の交換によって、初めて青年は、この世にわがままが許されないことを学ぶ。その道理を無視すれば、自分という存在が仲間の社会での、正当な位置を奪われてしまう。自然の摂理のなかに、厳しい罰が待っているわけだ。
3  友の不幸に自分も泣き、友の喜びに自分も心を躍らせる。そんな生命の共鳴が、本当の意味で社会に開かれた人格を形づくっていくのであろう。これほど貴重な人生の勉強もあるまい。もし、わが子の教育を真剣に考える親であるなら、友人をつくること、友人を大事にすることを忘れては断じてならぬと、私は思うのである。
 当たり前のことをいうようだが、青年はすすんで友を求めよき友をつくるとともに、友によってみずから学び、自身も友を正しく啓発することに至上の価値をおくべきであろう。そして、青春時代の友情を大切に守りそだて、生涯つらぬくことである。ただ、その場合、友情は善悪ともに通ずることも知らなくてはならない。悪友は得やすく、善友は得がたい。本当の善友とは、ときに自分の欠陥や誤りを、厳しく指摘してくれる人である。偽り親しむのは、かえって身を滅ぼす悪友である。
 人間の弱味は、往々にして、欠点を指摘してくれる人から、身を遠ざけようとするものである。だが、実際に、この欠点によって、わが身の蒙る――現実の結果は、それよりも何十倍も辛いものとなるのだ。そうした失敗をさせぬために教えてくれる友だちや先輩の苦言は、どれほど有り難いかしれない。
 よき友をもつこと。
 よき先輩をもつこと。
 これは、人生の至上の幸運であり、誇るべき宝であるといっても過言ではなかろう。まして、人間性がさまざまの逆らいがたい力で、惨めにも抜き取られつつある現代社会で、友情という人間関係は、人間性を守る唯一の砦とすらなっていくようである。

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