Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

滝山祭・そして恩師戸田先生 池田大作  

「四季の雁書」井上靖(池田大作全集第17巻)

前後
1  もう間もなく梅雨期も明ける頃で、やや晴れ間の多く見えるようになった昨今ですが、相変わらず酷しい蒸し暑さの続く日々を、いかがお過ごしでしょうか。私は今月の三日夜から八王子の創価大学を訪問し、それからほぼ一週間、こちらに滞在しております。直接には、大学の寮生たちが開催している滝山祭に招かれたのでしたが、それは七夕を前にした五、六日の両日にわたって行われました。
 滝山祭は学生寮の名にちなんだもので、今回で四度目になります。誕生してまだ歳月の浅い、新しい大学の伝統を作りあげていこうとする学生たちの心をこめた催しは、実に嬉しいものでした。いつも一個所に落ち着いていることの少ない私にとっては、久しぶりに長い滞在になりましたが、若い心との触れ合いは、何よりも私の慰安であり、愉悦であります。
 また、暇を見て、今度新しく大学の近くに開園した萩の庭を散策したりしております。最近では、このあたりも、次第に自然の姿が侵蝕されてきていますけれども、ここはまだ、音の武蔵野の面影がかすかながらも留められた多摩の丘陵の地で、萩がたくさんあります。それほど大きくはない庭園ですが、秋になれば、あの気品のある小さい赤い花、白い花が可憐に咲きこばれることでしょう。私は優美でいて、どこかに芯の強さを秘めた萩がことに好きで、どこへ行っても、萩の花を見ると、飽かず眺めます。万葉時代の人は、萩の花などを挿頭かざしにする習慣があったようですが、路傍にひっそりと咲き乱れた萩の花は、私にはなぜか平和と文化の象徴のように思えてなりません。
 今はまだ萩は見えませんが、花菖蒲が鮮やかな濃紫を誇っています。彼方には、緑の濃淡のある丘陵が、長く地平へと伸びており、矚目しょくもくの景すべてが、自然の豊饒な生命感を孕んでいるかのようです。
 この周辺で、時折、蛇を見かけることがあるそうです。陽の光の差さない藪蔭や草むらなどの湿地帯に生息するもののようです。自然にはそんなところもあって、全体として調和のとれた魅力が醸し出されるのかも知れません。だが、人生には――特に青春には、そんな湿地帯があってほしくはないと思います。
 人生というのは、暗いかげりりのある生き方であってはならない、青年は、昼は太陽と共に汗を流し、夜は星や月光と対話するような、生命力にあふれた、人生への真摯な日々を刻んでもらいたい――と、何日かおいて、そんなことを女子寮の学生諸君と語り合いました。
2  滝山祭の催しで、とりわけ人目を惹いたのは、ソ連から創価大学に届けられた展示品でした。これは私のソ連訪問の友好の記念として、展示してくれたもので、宇宙開発の人工科学衛星スプートニク一号や、月面で初めて無人探査を行った月面車ノルホート一号、それに衛星を打ち上げた液体ロケットエンジンなどが飾られました。それは現代の科学技術の最先端の成果ともいうべきものでありますが、学生や、訪れた市民も好奇の目を瞳っていたようです。
 私も興味深く見学致しました。そして、ふと、間もなく行われると聞いているソ連のソユーズ宇宙船とアメリカのアポロ宇宙船のドッキング計画のことを思いました。
 第二次大戦の終局近く、米ソ両軍が、東西からナテス・ドイツに進攻した際、ついにエルベ川中流で合流し、感激の握手を交したという史実になぞらえて、この実験計画は″エルベの結合″と名づけられているとのことです。はるか宇宙の彼方での握手が、この地上におけるすべての国々の、固い友情と信頼の絆の証であって欲しいと願わずにはいられないのです。
 それにしても、私が眼前にしている、そのさして大きいとはいえない非情の器械が、月からの帰還者であるという事実は、もちろん現代科学の驚異的な発展の証拠ではありますが、それ以上に何か神秘的なものを感じさせます。文明の進展は、月に遊ぶ兎という童心のロマンを失わせましたけれども、また一面、新たなロマンを生みつつあるとも考えられます。
 これは飛躍した連想ですが、私はその時、井上さんの詩集『北国』に収められている「漆胡樽しっこそん」の詩を思い浮かべました。あの異形の器物に対して、たしか、井上さんは、千年の時空を落下してきた一個の隕石に譬えられていたと記憶しております。そして、敗戦直後、最初の正倉院御物の展示に集う、戦争で荒んだ人々の心に与える不思議な安らぎのことを書かれていたと思います。
 井上さんの詩は、いずれも感銘深く読ませて戴いたのですが、特にこの詩には、強い印象を私は受けました。もちろん、ここで漆胡樽と月面車とを一緒に比較することは乱暴な話ですが、今後一世紀あるいは千年を経て、この月面車が、過去の遺物の一つとして展示された時、それはどんな感慨を後代の人に与えるであろうか、という想いを禁じ得ませんでした。
 私はそれが、たんに文明の成果を誇示するものとしてではなく、人類がその叡智と連帯によって、かつて地球上に繰り返された数々の悲惨と不幸を絶滅させる発端を切り開いたものとして留められることを熱望するものです。それをたんなる空想に終わらせず、あくまで厳しい現実に直面しながら、着実に、その目標に向かって進むことが、私どもの世代の使命であり、後代への責任ではないかと思うのです。
3  滝山祭、そしてその前後に多くの学生たちと語り合いました。私がこうして、若い心と交歓を重ねている間にも、私の傍らにはつねに今は亡き恩師戸田城聖先生の姿があります。先生が青年と語らったときの表情や言葉が私の前に克明に像を結ぶように思えます。
 私のすべての行動は恩師の蔭ながらの励ましとその雄姿に裏付けられてある、といっても過言ではありません。
 申し遅れましたが、七月三日は実は私にとって忘れ得ぬ日なのです。人は、それぞれの人生に、さまざまな自己固有の記念の日を胸深く懐いているものですが、私の人生にあっては七月三日がそれに当たります。終戦前夜の昭和二十年のこの日、戸田先生が約二年の獄中生活を終えて出獄したのです。
4  私事にわたって恐縮ですが、私は十九歳で恩師に邂逅かいこうしました。私の青春の軌跡も今日も、すべてその時に決まったようなものです。私が仏法者の道を歩むようになったのは、ひとえに戸田城聖という一個の人格との出会いによるものでした。
 その頃の私は、敗戦後の混乱した時代を、精一杯、模索しつつ生きる青年の一人でした。初めてお会いした時、額の秀でた、度の強い眼鏡の奥が光る戸田先生は、煙草をふかしながら「幾つになったね」と微笑みながら私に話しかけました。
 当時の私にとって宗教、とくに仏教は、はるか無縁の存在としか思えませんでしたが、私は二、三の質問をしたのち、戸田城聖という人物の姿をみて「この人なら……」ということで、ついていこうと決めたのです。
 もちろん心の底で人生の師となるべき人を求めていたことは事実です。私にとって決定的となったのは、戸田先生が戦時中、無謀な戦争に反対し、軍国主義と戦ったという事実でした。恩師は昭和十八年、治安維持法違反ならびに不敬罪で検挙され、投獄されました。私はその信念の強さを秘めた人格に魅かれたのです。
 前回のお手紙でペッチェイ氏の獄中体験を認めましたが、戸田先生も相当苛烈な目に遇ったにちがいありません。しかし御自身のことはさておいて、師でもあり、共に投獄された高齢の牧口常三郎初代会長のことを、独房でいつも案じていたようです。牧口先生の獄中での死を伝えられた時ばかりは、さしも豪気な戸田先生も涙が涸れるほど慟哭されたと承りました。
 「牧回は死んだよ」――こう看守に知らされた時から、実は戸田先生は生涯の道を誓ったと考えられます。この時、恩師の遺志を継ぐのは自分であると決定されたように思えるのです。「牧口先生は自分を牢獄までお伴させてくださった」と生前よくもらしておられましたが、この並々ならぬ言葉の中に、私は透徹した師弟の強い絆を知りました。
5  今年はちょうど恩師が出獄してから三十周年――。実はこちらへ来る三日の夕刻、私ども門下生は、それを記念したささやかな集会をもち、恩師の奥様や御子息などもお招きしました。恩師をしのび、新たな誓いのなかで過ごしたさわやかなひとときでした。
 恩師の思い出は数限りなく、それこそ尽きぬほどにありますが、御子息と語らいつつ、頻りに戸田先生の苦境時代のことが想い出されてきました。人間の記憶には楽しい時よりも、苦境、逆境の時の方がより鮮明に刻印されているように思います。
 恩師は出獄後、創価学会の再建に奔走する一方、出版などの事業に力を注いだのです。再建の基礎をつくりたいとの意図だったのですが、やがていくつかの起伏ののち、挫折するにいたりました。いつ春が来て、いつ冬が来たのか、わからないような厳しい毎日が続いていました。
 昭和二十五年の師走のことです。終戦直後に暗たんたる世相を反映して「星の流れに……こんな女に誰がした」(清水みのる作詞)という流行歌が巷間に歌われたことを、ご記憶かもしれません。行き詰まった事業の打開に走り続けていたある日、打開策の一つが不首尾に終わって帰る道々、私はふと、その歌詞をもじって「こんな男にだれがした」と歌ったのです。すると戸田先生が振り返られて「おれだよ」といって、にこっと笑われました。
 生死の境を行くような過酷な状況下で、私はその言葉にほのぼのとした想いを覚えたものです。厳しき訓練、指導のなかにも、無限の温かさと包容力を持った戸田先生の姿に、永遠についていこう、と固く誓ったことを今は懐かしく思い出します。
6  戸田先生は自由奔放な方でした。ステテコ姿で人前に現れることもあれば、お酒が好きで、飲むほどに冗談をとばされ、周囲を笑わせておられました。なかにはそんな姿だけ見て、戸田城聖という人物を理解していた人もいたようです。
 私は恩師から人間としての生き方を教わるのが目的であり、すべてですから、青春の燃焼のありったけを師と共に歩く日々に注いだわけです。
 繰り返すようですが、私は戸田城聖という人間を知り、その人間から仏法を教えられたのです。私の場合、決して信仰というものが先ではなかった。戸田先生を知って仏法を知ったのであり、仏法を知って戸田先生を知ったのではありません。
 私がなぜこうしたことを申し上げるかといいますと、実はここに社会万般をつなぐ軸のようなものがあると思うからなのです。つまり人間があってすべてが始まるという、単純なことかもしれませんが、私はこのことが実際には忘れ去られているような気がしてなりません。
 権威とか名声とか、形式が優先した社会というのを私は好みません。もっと人間そのものが前面に出て、人間と人間の打ち合いといえばいいのでしょうか、そこから混沌の時代や人間関係の希薄さを破る端緒が開けるようにも思えるのです。
7  恩師のことだけを書いてきましたが、どうしても七月を迎えるとそこに筆が進んでしまうのです。ご容赦下さい。戸田先生は権力にも権威にもこびず、貧しい人の、苦労している民衆の味方でした。庶民の足下の問題を、膝をまじえつつ語り合う時、路地から路地へと一軒一軒、訪ねている時が、最もうれしそうでした。それに青年をこよなく愛された。先生は鋭く、青年こそ新しい時代を開く力であると見極め、実際の行動をもって示された人でした。
 ともかく戸田城聖という人格は、将来においてさまざまな角度から論じられると思いますが、私にはこの、生涯、庶民と共に歩み、青年を愛した――という事実が、戸田城聖という人物を見る場合、決定的な視点となるとひそかに考えているのです。
 昭和三十三年に逝去されて以来、私の心の中には、いつも戸田城聖という人格がありました。それは生きつづけ、時に黙して見守りながら、時に無言の声を発するのです。生命と生命の共鳴というのでしょうか。ある風景や場面に出くわした時、なぜかここに以前きたような思いを味わうことがありますが、それに似たような感覚を私はしばしば体験することがあります。
8  雑然と、思いの浮かぶままにつづってまいりました。あまりにも私自身と関連したことばかりで、恐縮いたします。ただ私という一人の人間の底にある想いをお汲みいただけたら幸甚でございます。これからは猛暑を迎えます。ご健勝にて、つつがなくお過ごしなされるよう、心より祈っております。
 一九七五年七月十一日

1
1