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日蓮大聖人・池田大作

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武帝と霍去病のこと 井上 靖  

「四季の雁書」井上靖(池田大作全集第17巻)

前後
6  私は、こんどの旅の間、何回か茂陵と、霍去病の墓のことに思いを馳せました。何か考えなければならぬことがあるように思い、その度に二つの墓の丘を眼に浮かべましたが、結局のところ、そのまま日本に持ち帰る以外仕方ありませんでした。
 現在、私はこのように思っております。私が紀元前の一人の権力者と、その若い部下の墓が並んでいるというただそれだけのことに、思いのとどまるのを感じたのは、計算のない、本当の愛情で、二つの墓の主が結ばれているということを感じたからではないかと思います。
 武帝は優れた権力者であったに違いありませんが、陳皇后、鉤弋こうよく夫人、みな非命に終っている事実からだけでも、ひとすじ縄ではゆかぬ容易ならぬ人物であったでありましょうし、現在の中国の史家も、武帝を大きく肯定面で捉えながらも、晩年の農民の蜂起などの点からして否定面をどうすることもできないようであります。そのような人物ではありますが、しかし、武帝における一番いいところは、若い部下であった霍去病に対する愛情のような形で出ているのではないかと、私は思います。晩年、七十歳近くなった武帝が、自分の生涯で最も華やかだった壮年期を大きく支えてくれた孫のような若い武将ヘ烈しい愛情を覚えたことは、武帝の晩年が暗かっただけに、それが素直に理解されるように思われます。極端な言い方をすれば、私は武帝の周辺を二、三の文章に綴っていますが、こんど初めて、武帝の一番いいところを発見したのではないか、そのような思いに揺られます。私の、武帝と霍去病の二つの墓に対するものは、深読みであるかも知れませんが、しかし、私にはそのように思われてなりません。
7  こんどの中国の旅で、もう一つ、私にとっては事件と言えるようなことがありました。それは、二度目に北京に入った時、親しい友である作家の野村尚吾君の訃報に接したことであります。私が中国に立つ半月ほど前、野村君は私を訪ねて来て、これからの仕事について、私の意見などを求めて、一時間ほど話して帰られたのですが、全くこんどの悲報を思わせるようなものは何もありませんでした。私はどうしても野村君の死を信ずることができませんでした。
 私と野村君は同じ毎日新聞社の同僚で、同じ頃小説を書き出し、作家として一本立ちする前の最も忙しい、大切な時期に、氏は私をかばって、新聞社における私の分の仕事まで引き受けてくれました。そのお蔭で、私は作家としては幸運なスタートを自分のものとすることができました。逆な言い方をすれば、氏は私のために、一番大切な時期を見送ってしまうことになったと言えましょう。
 ――どうぞ、お先きに。
 当時の氏の眼は、いつも私にそのように言っておりました。そしてまさにそのように、氏は私に遅れて文壇に出、きめの細かい、地味な作品を書き、いよいよこれからその資質が大きく実を結ぼうとしているやさき、ふいに死が氏を見舞ったのであります。
 私は氏の訃報に接した時、自分の恩人でもあり、誰よりも親しかった友に、当然語るべき何ものも語っていないことに気付きました。二人の間で交さなければならなかった言葉は、交されないままに、私と共に遺されてしまった思いでありました。
 その夜、十二時過ぎてから、北京飯店の自分の部屋のベランダから、深夜の北京の町を見降しました。ホテルの前を走っている長安街には自動車一台、人の子一人見当らず、きれいに水洗いされた大通りが、大きな街燈に縁どられて、しんとした置かれ方で置かれてありました。
 私にはそうした北京の町が、私の親しかった友のために、今や完全に喪に服しているかのように見えました。私は今はない友に、自問自答の形で、そのことを伝えました。
 池田さんのご存じない友のことを認めましたが、中国の旅のことをお報せするとなると、やはりこのことに触れずにはいられない気持でした。
 いろいろなことを脈絡なく認めました。御静境を煩わしたことと思いますが、お許し下さいますように。
 一九七五年六月十二日

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