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日蓮大聖人・池田大作

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「人間疎外」をもたらす要因  

「大いなる魂の詩」チンギス・アイトマートフ(池田大作全集第15巻)

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6  池田 「一時的に不滅な我ら」とは、面白い表現ですね。それは、私がいつも使っている「刹那に永劫を生きる」ということと通じており、仏教的発想に親近しております。
 時間の問題は、あとの章でふれる予定ですので簡単に申し上げますと、仏法では、永遠の生命ということを説きますが、それは過去から現在、現在から未来へと伸びる一本の線のような、客観的実在をいうのではなく、まず、現在の一瞬があるのです。
 無限の過去と無限の未来とを包摂する現在こそ生きた実在であり、それを離れた過去といい未来といっても、それは空虚な存在であり、虚像でしかないのです。そのことを私は「東洋哲学にあっては、『自己』とは何なのかという問題は、たんなる知的操作の対象となったことは絶えてなく、そのままみずからが生きるということに直結していました」と前述したのです。
 さて、そのような「自己」を前提として、ひとつ、発想の転換をしてみませんか。演繹的な発想法に……。
 たしかに、帰納的に考えると、現代社会を覆う「人間疎外」「自己喪失」は、絶望的とまではいかないまでも、はなはだ悲観的にならざるをえないでしょう。あなたが例を挙げておられたように、テレビに対する私たちの能動的働きかけは、スイッチを“オン”にするか“オフ”にするかなど、ごく限られたものですし、自動車という無気質な物体に「わが兄弟よ!」と語りかけたとすれば、よほどの変人扱いをされかねません。
 たんに物に限らず、たとえば政治機構などにしても、肥大化し巨大化すればするほど、限られた個人の力では手に負えない、手の届かないものと化し、その結果、政治的なアノミー(無力感)を引き起こしてしまうことは、現代の民主主義や議会政治のアキレス腱として、しばしば指摘されるところです。
 とはいっても、そうした機械文明の成果や政治制度などを、すべて否定しようとしてもできるはずはありません。カウンター・カルチャー(対抗文化)としての意味はあっても、それが、すぐさま現代文明にとってかわりうるという考え方は、現実的ではありません。
7  そこで、演繹的に発想を転換してみましょう。と言いますのは、そのような現代文明が産み落としたさまざまな事ども、換言すれば可視的な世界を一挙に跳び越えて、その世界を包摂する不可視な世界へと自己を拡大しゆく手立ては、はたしてないものかということです。
 そうです。それは、ある意味では、あのファウスト的野心と通ずる側面さえ有していると思うのです。
 おれは人類全体にあたえられたすべてのものを、
 内部の自己で味わいつくすのだ。
 おれはおれの精神で、もっとも高いものとともに、もっとも 深いものをつかむ。
 おれはおれの胸のなかに、あらゆる幸福とあらゆる悲嘆をつみかさねる。
 そして、おれの自我を人類の自我にまで押しひろげ、
 ついには人類そのものといっしょに滅びてみよう(前掲『ファウスト』)
 「……滅びてみよう」はともかく、こうしたファウスト的な、不敵な自己拡大の試みほど、衰弱した現代人から縁遠くなってしまったものもないはずです。たしかに、それは、人間の傲慢、ドストエフスキー流に言うならば「人神」へと傾きがちな側面も有しますが、正しく導かれるならば「我即宇宙」として、ミクロ・コスモスとマクロ・コスモスの融合を説く、仏教的宇宙観にも通じていくはずです。私が、ユングの「東洋的英知」という言葉に言及したのは、そうした演繹的発想が念頭にあったからです。
 そうした時間的、空間的な自己の拡大は、ユングらによって進展させられた深層心理などによっても裏付けられているようですが、それはまた、あらためて論じましょう。

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