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日蓮大聖人・池田大作

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ロシア文学の伝統と特徴  

「大いなる魂の詩」チンギス・アイトマートフ(池田大作全集第15巻)

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6  池田 アヴァクームといえば、十七世紀、ロシア正教会に反抗したラスコーリニキ(分離派)の指導者ですね。ドストエフスキーの『罪と罰』の主人公の名前(ラスコーリニコフ)が、その運動にちなむ名前であろうことについては、わが国でも種々議論の対象となりました。
 むきだしの権力の前に、民衆はつねに徒手空拳です。唯一の武器は「言葉」です。破門され、迫害され、追放されればされるほど、言葉は鍛えられ、磨かれる。先ほど話題に挙げたヴィクトル・ユゴーも、暴君によって圧迫されればされるほど、言葉は「花崗岩のような硬さ」をもつ、と語っています。
 たとえ火刑に処されようと、言葉は残る。ときに人が、命に代えてまで言葉を守ろうとするのも、それゆえにほかなりません。
 人間にとって、言葉は永遠の武器であり、最強の兵士です。と同時に、前にも強調しましたように人間は“言葉の海”の中で人間になる。仏法でも「声仏事をなす」と言いますが、語られる言葉とは人間の生の本質と密接にかかわっています。その意味で、人間は「ホモ・ロクエンス」(言葉をもつものとしての人間)であると言ってもよいのです。いみじくもゴルバチョフ氏が語ったように、言葉の力を信じられるか否か――そこにこそ、人間としての生の機軸があるのではないでしょうか。
 今日にいたる危機の本質は、そうした言葉のもつ力の衰弱、言葉に寄せる人間の信頼の衰えにある、と私は思います。
 言葉の危機は、そのまま人間の危機にほかなりません。言葉とは、たんなる記号でもなければ、符丁でもない。その背後には、その言葉では容易に把握することのできない広大なる意味論的宇宙が広がっている。いわゆる言葉のもつ“ふくらみ”です。そうした含意性が、ことのほか希薄になってしまったのが、科学至上主義の現代の特徴なのです。
 言葉の背後に広がる宇宙の深さに思いをいたさず、符丁のごとくに言葉を軽々に取り扱い、じつのところ言葉の力の偉大さと怖さにいっこうに気づこうとしない人には、命の値に匹敵するほどの言葉の値など、顧慮することさえ不可能なことでしょう。
 過去を振り返ってみるとき、つねに人間と言葉とのかかわりに、いわば“活”を入れてきたのが、優れた文学者でありました。そこに、人間の歴史における文学というものの究極の役割もあると思います。
 ところであなたは、キルギス語とロシア語の二つを母語としてお育ちになったと聞きますが、作品の創作にそのことはどのような作用をおよぼしているとお考えですか。
 アイトマートフ 私自身は、ロシア語を使う作家ですから、もちろんロシア文学に属します。
 しかし、この問題は特別で、文学的実践の中ではある種の新しさをもっています。つまり、私はロシア語で書く人間でありながら、自分の民族的な所属という事実を拠り所にしています。何を書くにしても、キルギス語と私の民族的な世界観は、私の自己表現にいつもついて回っています。キルギス語とロシア語は、ともに私の母語です。この二つの言語は、私を豊かに育ててくれた、いわば二人の母親のようなものと言えます。これは、運命的なものだと思います。

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