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日蓮大聖人・池田大作

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後記  

「21世紀への人間と哲学」デルボラフ(池田大作全集第13巻)

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5  ついで「倫理と宗教の役割」については、SGI会長が、キリスト教の倫理観は神中心で他律的であるが、仏教では自己の内面を重視していて自律的であると、まず両者のちがいを明らかにしたのに対して、デルボラフ博士は「私の理解が正しいとすれば、仏教は、キリスト教とは正反対に、人間解放の穏健な宗教だと思います」「イエスがあらわれたのは『旧約聖書』の律法を解消するためではなく、それを実現するためでした」と応じている。そのうえで、自身の幸福をめざすだけでなく、他者の幸福をもめざすべきであり、利己のために他を犠牲にしてはならないということ、すなわち、自己完成とは、自分自身に集中することだけでは成しえず、かならず他者に向かうことを要するのであり、これは東西いずれの思想にもあい通じている倫理規範であることを、たがいに確認しあっている。SGI会長は、こうした倫理観の肉化のためには仏教の実践が要請されることを語る。
 二人の対話は、ヒューマニズムや倫理観の根本にある、キリスト教と仏教そのものの差異の検討へとすすんでいく。SGI会長は、両宗教の共通点として「人間を物質的・社会的欲望を超えた精神的欲求へみちびいた」点にあるとし、博士も「愛とか慈悲とか、その内面的推進力をどう名づけようと、キリスト教徒も仏教徒も、その心はとくに貧しい人、弱い人に向けられています。両宗教はともに人間の実存的苦悩と脆弱さを――仏教はさらに人間以外の自然のそれをも――考慮に入れ、救いだそうとしたのです」と述べて、ここでも「自己の精神的完成」と「他者への慈悲(愛)」の両面の必要性を、おたがいに強調している。
 「法か人格神か」の問題は、両宗教の一番のちがいとして取り上げられている。法と仏陀の関係について、SGI会長は明快な議論を展開する。博士が、キリスト教の教義の変遷にふれつつ、法の概念に近いものが教義の一部にも見られることを指摘し、逆に、神の意志と人間の自由意思とのあいだに存在するジレンマに言及した際、SGI会長は、自分という存在が神の賜物であるとすることと、自身の仏性を自身で自覚する点とに、大きな相違点があることをかさねて主張している。
 仏教の愛とキリスト教の慈悲との対比や、歴史に見るキリスト教思想への仏教の影響といったテーマに関しては、まずSGI会長が、仏教の基本理念や歴史をわかりやすく解説する。それに対し、これは本書の全編を通じていえる特徴だが、博士の仏教へのアプローチはじつに真摯であり、その該博な仏教理解が、対話全体をいっそう味わい深いものにしている。その意味では、この二人の知性の対話は、キリスト教との相違点や共通点を追求するなかで、仏教思想のアウトラインを知り得る、“良き仏教入門書”として読むこともできるだろう。
6  両者は最後に、二大宗教の対話の重要性について確認していく。SGI会長は、アーノルド・トインビー博士が「今から一千年後の歴史家が、この二十世紀について書く時がくれば、自由主義者と共産主義者の論争などにはほとんど興味をもたず、歴史家が本当に心を奪われるのは、人類史上初めてキリスト教と仏教とが相互に深く心を通わせた時、何が起こったか、という問題であろう」と語ったことを紹介している。デルボラフ博士も、両宗教体系が、たがいに対話することに寛容であるべきこと、そして、おたがいに「自己批判」するところまで比較と批判を深めていくことで、対話を実りあるものとすることができる――と語る。
 本対談では、「自己批判」は、博士の発言にそってキリスト教の側に多くみられる。現代世界をおおう物質文明は西洋のものであり、現代世界における近代化とはそのまま西洋化を意味している。その西洋化と近代化が行きづまっているとすれば、これに豊かな生命を吹きこむものは、西洋文明に批判的な思想や文化伝統をもつ側から送りだされなければならない。その意味から、西洋文明の基底をなすキリスト教と、東洋の仏教とのこの対話は、実り豊かな果実へと熟成させる第一歩となったといえるだろう。
 二人の認識は、両宗教が、自己完成をめざしている点では共通しており、自己の悟りの追求のみに終始することなく、そこに説かれる「最高の境地」が現実から逃避したものであってはならない点をしっかりとらえている。悟りや最高の境地が、現実を超えた「彼岸」だけにあるのでは、それは逃避の思想におちいってしまう。「彼岸」への極端な思想は、「死」へと向かいかねない。現実の「此岸」へともどれる思想であり、「生」へと向かう思想でなければ、人間が現実のなかで豊かに人間性を発揮することはできない。まして、世界が直面している諸問題を解決する力となることも不可能であろう。現実から逃走することのない絶えざる挑戦・現実のための思想であるべきことを、両者は確認している。
7  日本も世界も、新しい世紀を目前にして、激動と混迷のなかにある。闇は深いと言わなければならない。この闇は思想の混迷と、精神の荒廃によってもたらされているといえるだろう。故に、思想を手がかりに前進する以外にない。人間の歴史も、激動の時、釈尊のように、キリストのように、精神の泉を大地深く掘りさげる人の力業によって回転してきた。個人にとっても、この乱世においてこそ、自己の内面に眼を向け、自身の内なる精神の泉を発見し、揺るぎない自己を確立していく作業が大切である。そのために、仏法の視点からキリスト教の文明や思想に光をあてて考察する本書は、読む人に豊かな示唆をもたらすにちがいない。
    一九九五年九月十二日

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