Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

4 校内暴力の風潮  

「21世紀への人間と哲学」デルボラフ(池田大作全集第13巻)

前後
12  デルボラフ 先に、西ドイツの教育改革の「誤った進歩」にふれましたが、そこからも、わが国は、教員養成の面で痛手を受けています。疑いもなく、今日、われわれはますます科学化される世界に生きており、学校や教育は、それを理解する鍵を、つぎの世代に提供していくことが求められています。
 そこで、西ドイツでは、授業を「科学志向的」に実施しようとしました。ギムナジウムだけでなく、幼稚園までもふくめてです。つまり、全学年の教師が、科学にその理想像を求め、青少年が自然な意識、すなわち科学以前の日常的実践のなかで求めるものをはるかに超えて、しかも特別な橋渡しを考慮しないで、科学の抽象の世界へとみちびこうとしているのです。
 それにくわえて問題なのは、教員の養成理論ばかりか、その実践的訓練形態もつねに変化していることです。同時に、総合制学校にせよ、ギムナジウムのような能力別の学校にせよ、さまざまな教育機関のあり方が、教育学部の内容構成や、それに関連した試験制度に影響をあたえています。学生は、卒業のために必要なセミナー参加証を、苦労して集め、試験を受けて合格すると、今度は大学卒業生として、なまかじりのやり方で――すなわち、二番せんじの科学性で――授業実習のための「研究セミナー」に入れられます。
 とうぜん、このような過程をうまく通ってきたからといって、良い教師になるとはかぎりません。ドイツでは他の職業と同様、教職でも、専門化がとうの昔に浸透しており、教師も、かつての「招聘されている」という意味での「聖職」から、最近では、形式がアカデミック(学術的)である、というだけの職業となってしまっているのです。
 以上、西ドイツの教育および学校生活の、否定的側面に関して指摘してきましたが、あまり悲観的になりすぎてもいけませんから、何かを付けくわえるべきでしょう。あなたご自身も、今日の教師にものたりなく思い、生徒から尊敬されるような資質を期待しておられるはずです。ここに欠けていると思えるのは、かんたんに言って、人間に対する信頼なのです。
 すなわち、教師は、自分の教育上の課題をいかに不十分に漠然としか理解できていないとしても、みずからの果たさなければならない課題を、たんなる教育技術上の機能とみなすのではなく、自身の活動がもつ深い人間的意義を把握し、被教育者のなかに自己を再発見し、それを鍛錬し、育成すべきです。こうすることによってこそ、ヨーロッパでもアジアでも、教職に特有な「聖職」という性格の片鱗を、ふたたび呼びさますことができるのではないでしょうか。
13  池田 教職は「聖職」か、たんなる労働者かという論議は、日本では第二次世界大戦後、労働運動に教師が参加するなかで、さかんにたたかわされました。
 たしかに「聖職」なのだから劣悪な条件にもあまんずべきである、と押しつけることは誤りです。しかし、みずからの職業、仕事に誇りをもつ人ならば、その仕事が何であれ、社会的害悪をもたらさない、正規の仕事であるかぎり「聖職」意識をもつのが自然です。まして、未来を担う青少年の人格育成、という重要な仕事に従事する教師に「聖職」であるとの自負と情熱がなくしては、実りある教育活動は、期待できるわけがありません。
 私は、教師が「押しつけられて」でなく、みずからの自覚として「聖職」たる誇りを取りもどすことこそ、教育再建の一つの出発点であると考えます。
14  ゲオルク・ケルシェンシュタイナー
 (一八五四年―一九三二年)教育学者。ミュンヘン大学教授。小学校に工作や料理の教科をもうけて作業教育運動をはじめ、また公民教育の必要性を説いた。主著は『陶冶論』。
 エドゥアルト・シュプランガー
 (一八八二年―一九六三年)哲学者、教育学者。ベルリン大学教授。文化哲学の立場から「精神科学的心理学」を提唱。主著『生の諸形式』。

1
12