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日蓮大聖人・池田大作

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3 登校拒否(不登校)の原因…  

「21世紀への人間と哲学」デルボラフ(池田大作全集第13巻)

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1  池田 今日の学校教育をめぐって、深刻化している問題に、登校拒否(不登校)、校内暴力、非行化等があります。
 登校拒否は、日本では一九六〇年代から増えはじめました。それには、種々のケースがありますが、とくに問題になるのは、学校恐怖症といわれる神経症的なものです。というのは、単純なズル休みなどは昔からあるのですが、学校恐怖症は以前にはあまりなかったもので、近年、急速に増加しているからです。
2  デルボラフ 教育および学校生活に関連して、好ましくない点を二つ、浮きぼりにしてきました。一つは、組織化された学校経営が、社会生活と一線を画していること、つまり、学校経営の孤立化から出てくる問題であり、他の一つは、授業の詰め込み主義、すなわち、知識習得偏重の問題でした。
 ここではさらに新しい視点として、生徒と、その背後にいる教師を、考察の対象としてみたいと思います。それによって、こうした二つの点が生徒の行動のなかにどう反映しているか、が明らかになります。
 つまり、消極的形態としては、それが短期であれ長期であれ、登校拒否をしようとする事態のなかに、また積極的形態としては、学校の規律や詰め込み教育に対する抗議の表現としての校内暴力というかたちのなかに、どう反映しているか、という問題です。同時に、教師がそれにどのようなかかわりをもっているか、という問題も明らかにできるでしょう。
 登校拒否と校内暴力は、今日の学校生活で解決されるべき数ある病弊の、たんなる症状でしかありません。両親や教師は、たいていの場合、子どもがこうした病弊に直面し、苦しんでいるのを知っていますが、どうしてよいかわからないのが現状です。マスコミは個々の症状を取り上げ、仰々しく公衆の面前にさらけだすと、やがて、さっさと他の話題に移ってしまいます。
 それが長期にわたって注目されてはじめて、学問的研究の対象となるわけですが、いろいろな議論をへて、信憑性ある洞察の成果がまとめられるまでには、何年もかかります。登校拒否と校内暴力という問題は、ドイツではまだ、その段階までいたっておりません。そうした問題が存在しないわけではありませんが、どちらかといえば、学園生活の他のさまざまな支障にくらべると、むしろ付随的現象といえます。
3  池田 登校拒否も校内暴力も、学校教育全体の問題から噴出した症状であり、社会の急激な変化にともなう現象と考えられますが、そうした問題がおこると、マスコミがそれをクローズアップし、センセーショナルに報道する傾向があることも、そのとおりだと思います。したがって、対症療法や個別の対応にとどまらず、全体的視野から、冷静に、粘り強く、取り組んでいくことが肝要であることは、いうまでもありません。
 ただ、ドイツとは様相を異にしますが、日本では不登校の子どもたちは、増加の一途をたどっています。(「文部省学校基本調査」によれば、一九八八年度に学校を五十日以上欠席した子どもは、小学生で六千人以上、中学生では三万六千人以上にもおよんでおり、こうした数値の高さは、不登校を特別な子どもだけにおこる現象として受けとめるのではなく、むしろ、どの子どもたちにもおこりうる可能性がある、ということを示唆しているといえます)
 いまや社会問題として注目をあつめつつありますが、子どもたちが不登校にいたる直接的なきっかけとしては、学業不振や友人関係、先生との関係をめぐる問題、さらには親子関係など家庭にかかわる問題など、さまざまな原因が考えられるでしょうが、大切なことは、それらのほとんどが、ストレスからくる一つの反応形態ではあっても、けっして病気ではないということです。学校に行かないとなれば、周囲からマイナスの評価をくだされがちです。
4  しかし、不登校問題を考えるうえで大事なことは、親や教師をはじめとする大人たちは、不登校状態にある子どもたちの大半が、本人がなまけているのではなく、学校に行きたいのに行けずにいるということを、まず、しっかりと理解してかかる必要があるということでしょう。このことは、多くの専門家の一致した見解でもあります。
 また不登校という状態は、一面から見れば、子どもが自己決定にいたるまでの過渡期であり、自立への模索の時期であると考えられます。ともすれば、知識習得偏重で学歴主義に走るあまり、画一的で、子どもを一つの鋳型にはめこんでしまいがちなのが、日本の学校教育の現状です。子どもたちにとっての不幸は、まさにその点にありますが、そんななかで不登校の子どもたちは、学校を休むことで、他人とはちがった自分という存在を認めてもらいたい、と大人たちに訴えかけているのかもしれません。
 学校はもとより、家庭や社会においても、そうした認識のうえに立って、子どもたちの自立と成長とを支援し、援助しゆく態勢をととのえていくとともに、その子どものおかれた状況や発達段階を十分に考慮したうえで、それぞれのケースにあった適切な指導が望まれることはいうまでもありません。
 そのさい、なによりも欠かせないことは、国際日本文化研究センターの河合隼雄教授も指摘しているように、少しの遅れなど大丈夫という気持ちと、いつかはよくなるという希望をけっして失わず、あたたかく見守っていくことでしょう。そのことがとりもなおさず、学校や家庭で知らずしらずのうちに強いている、子どもたちへのストレスをやわらげることにもつながるのではないでしょうか。
 数値の高さ 一九九四年度において、「学校ぎらい」の理由で学校を三十日以上欠席した子どもは、小学校で一万五千七百七十三人、中学校では六万一千六百二十七人に達しており、過去五年間、増加傾向を示している。
5  デルボラフ ドイツにおいても、もっか、焦眉の問題としては、学校ストレスと、子どもたちにかかる明らかに異常な負担をあげることができます。また、その作用面で、ときとして覚醒剤にも似た心理的刺激剤を使ってでも、子どもたちを縛りつけておこう、とする親たちの努力もあげるべきでしょう。
 ときどき、多くの親は子どもの成績に特別な関心をいだいていない、ということを耳にします。しかし、これは、支障をきたしたり、崩壊した家庭、あるいはまた、社会的に最下層の家庭の場合の、例外的事例にすぎません。
 実際はむしろ逆で、子どもが三カ月ないし半年ごとに成績表を家にもって帰るとき、またはもって帰らねばならないときなどに、顕著に見られます。つまり、何千という子どもは悪い成績表を親に見せたがらず、恐るべき懲罰裁判をさけようとして、逃げたり隠れたりします。なかには、自殺に逃げ道を求める者さえいます。勇気をだして帰宅すれば、殴られるのが通例で、親の暴力は、ここでは野蛮なほどにエスカレートしています。
 こうした親の異常な狂暴性には――奇妙なことですが――けっして悪意はないのです。むしろ、親自身がますます大きくなる不幸な運命を感じはじめていて、そうした状況に狼狽し、絶望におちいっていることの印でさえあるのです。
 親にしろ、子どもにしろ、一般的に善良な意思をもっているのですが、ただ、それだけでは学業成績を向上させ、確実にするには十分ではないわけです。それもある程度、やむをえません。今日の学校は、子どもをひきつける魅力がほとんどなく、やる気をなくさせてしまっているからです。
6  池田 日本の家庭の場合、学校の成績が悪いからといって、親が暴力をくわえる例はほとんど聞きません。
 もうだいぶまえですが、父親もエリート、兄も一流大学を出ているのに、弟だけ大学受験に何度も失敗し、家族から劣等生あつかいされた結果、発作的に両親を野球のバットで殴り殺した、という事件がありました。直接の動機は、両親のところからカネを持ち出し、無断で使ったことをなじられたためであったと記憶していますが、その背景に、ふだんからの心理的圧迫があったことが明らかになり、日本中にショックをあたえました。
 ここに象徴されるように、日本の場合は、暴力よりも心理的圧迫がくわえられるケースが多い、といえましょう。
7  デルボラフ 教師にたずねると、まったく別の観点が浮かびあがってきます。教師にとっての嘆きの種は、生徒のあいだで増大する成績不良と無関心・無規律、そして暴力行為です。実際、彼らの言うことに誇張はなく、暴力行為や、あなたも言われている狂暴なふるまいは、学力の低い者の奨励のためにつくられた総合制学校において、顕著に見られます。
 「破壊された三本脚の椅子」、ドイツの総合制学校の教育環境についての報告書には、このような題で、つぎのようにのっております。窓ガラスは粉々に砕け、コート掛けは壊されてバラバラになり、ずたずたに破られた壁紙が壁からたれさがり、電線はコンセントから突き出ており、チューインガムは床のいたるところにくっついており、タバコの吸いがらは廊下にちらばっている。捨てられた紙はくず入れのかたわらにちらばり、授業中は耐えがたい喧騒にみちている。生徒は休み時間になると、床にしゃがみこんでタバコを吸い、コーラを飲み、トランプ遊びに興じる、といったぐあいです。
 こうして見ると、教師が風紀を破壊する最悪の連中の欠席を、それが短期であれ、長期であれ、とくに悪いと感じないのも、不思議ではありません。
8  池田 教師としては、そうした子どもたちが学校にきて風紀をみだし、他の生徒たちに悪影響をおよぼすよりも、学校に来ないでくれたほうがよい、という気持ちになるのも無理はないというわけですね。もちろん、教師の使命としては、真剣に彼らと接し、正しい道にたちもどらせる努力をこそしなければならないわけですが。
9  デルボラフ ただ残念なことに、学校を休むのはかならずしも乱暴な者たちだけでも、また、思春期の危機にある青少年だけでもありません。親が農業に従事していて、授業の前後に親から仕事を言いつけられる無邪気な子どもたちは、くたくたに疲れてやっと登校してくるか、ぜんぜん学校へ来なくなることがあります。
 もちろん、法律上の義務教育は存在しますし、出欠をチェックする手続きもありますが、教師を欺いたり、ズル休みを正当化する抜け道は、いくらでもあるものです。こうした子どもたちの多くは、九年から十年の義務教育期間が、実質的には合計すると四年から五年の長さに減るわけで、悪い結果が予想されます。
 この種のパートタイム的生徒は、ドイツ語の基礎知識すらろくにおぼえられません。なかには読むことはおろか、自分の名前さえも書けない生徒もいるのです。これは「二次的文盲」と呼ぶべきもので、文明国では、こうした現象が、今日、驚くべき勢いでひろまっており、西ドイツで約三十万人、オランダで五十万人、イギリスで二百万人、アメリカになると二千万人から三千万人に達しており、未掌握の数をふくめると、もっと多くなるはずです。
10  池田 日本の場合、自分の名前さえ書けないという非識字者は、学校へ行けなかったお年寄りを別にすれば、ほとんどゼロといってよい状態です。
 ただ最近の若者についていわれることは、正しい文字や言葉の使い方を知らないことだといってよいでしょう。
11  デルボラフ そこでいえることは、十年もまえに批判されたように、学校文明、あるいはもっと厳密にいえば、現代社会の「学校化」が、行き詰まってしまったということです。
 日本でも知られているジャーナリストのイヴァン・イリッチが、社会の完全な「脱学校化」を主張したのは十五年まえのことでした。すなわち、社会のガンとなっている伝統的形態の学校を、破壊すべきであり、子どもや青少年を、もっと苦痛の少ないかたちで成人としての課題習得へみちびく方法に切りかえるべきだ、と訴えたのでした。
 しかし、ドイツでは、こうした提言は聞き流されてしまいました。それがはたして、空虚なユートピアなのか、もしかしたら有益な改革の手がかりとなるのではないか、ということすらも検討されませんでした。
 「生涯教育」と呼ばれる、ユネスコが提出した改革案は、授業内容を自由な活動と検証の段階に交互に分け、生涯にわたってつづけていくことにより、子ども、青少年、成人を、学校の継続的ストレスから解放することをねらったものです。しかし、この改革案も、これまでのところ、ほとんど賛同が得られていません。
12  池田 創価学会の牧口常三郎初代会長は、その生涯を小学校校長として児童教育にささげましたが、牧口会長が提唱した一つとして「半日学校制度」がありました。
 これは、半日は社会人・家庭人として働いて、半日を学校で学ぶようにする方式で、これによって、実生活の地についた感覚をやしないながら、知識を習得していけるというのです。私はこの牧口会長の考え方は、その基本において、いまあげられたイヴァン・イリッチやユネスコ案と共通しているのではないか、と考えます。
13  イヴァン・イリッチ
 (一九二六年―)オーストリア生まれの社会思想家。メキシコに国際文化資料センターをつくり西洋技術文明・産業社会の荒廃を批判する運動を展開。著書は『脱学校化の社会』『シャドウ・ワーク』など。

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