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日蓮大聖人・池田大作

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6 仏教とキリスト教の交流  

「21世紀への人間と哲学」デルボラフ(池田大作全集第13巻)

前後
1  池田 かつて、アーノルド・トインビー博士がある有名な連続講演を結ぶにあたって「今から一千年後の歴史家が、この二十世紀について書く時がくれば、自由主義と共産主義の論争などにはほとんど興味をもたず、歴史家が本当に心を奪われるのは、人類史上初めてキリスト教と仏教とが相互に深く心を通わせた時、何が起こったか、という問題であろう」と語っていました。いかにも、トインビー博士らしい巨視的な話ですが、私も、そのとおりであろうと思います。人類の今後の歴史にとって、仏教とキリスト教の対話が、今日ほど重要な意味をもっているときはない、と私も信じております。
 そこで、先ほども指摘しましたが、十九世紀末ごろにヨーロッパで注目された仏教といえば、パーリ語で編纂された初期仏教経典のなかに見いだされる思想内容であったようです。そこに説かれていたものは、仏教全般の根本的な特質ともいうべき、その無神性であり、奇跡を自己の宗教性の本質としない合理性でした。この無神論的色彩が、当時、キリスト教の信仰にあきたりなくなっていた人々に、大いに注目されたようです。
2  仏教はキリスト教とは異なり、天地万物の創造主としての唯一・絶対なる神の存在を認めませんし、また、処女受胎やキリスト復活のような奇跡を必要としないばかりか、むしろ排斥しています。
 しかし、だからといって、仏教は、近代的思惟の特徴である合理主義や実証主義と同列に立つものではありません。非合理こそ排しても、合理性を超えた世界を認めていることはとうぜんです。
 たまたま、十九世紀末のヨーロッパの時代思潮が、パーリ語の初期仏教文献を合理主義的に、かつ実証主義的にとらえさせたのであって、いわば仏教への“思い込み”がとくにいちじるしかった、といえるように思います。
 あなたもあげられたヘルマン・ベックは『仏教―仏陀とその教理』(渡辺照宏訳、岩波文庫)の「序論」のなかで、「仏教は西洋でいうような無神論でもなく、また、ただの哲学的合理主義でもない」と述べ、また「この書物におけるわれわれの仕事は、仏教の本質を認識すること、そしてこの洞察によって、一般に宗教的認識と宗教的生活とを深くほりさげることである。(中略)仏教のほんとうに学的な研究こそは、あらゆる宗教、そのなかでもキリスト教を深く理解するのに役立つであろう」(同前)と記しています。
 さらに「仏教とキリスト教とどちらがすぐれているかというような比較は、たとえそのつもりではなくても、どちらか一方をひいきする動機によることが多いので、何の役にも立たない」「仏教とキリスト教とは二つの教義が対立してたがいに理論の優劣をきそうというのではなく、二つのあいことなる生命の流れなのである」(同前)とも述べています。このベックの仏教認識が仏教の全体をとらえているとは思いませんが、少なくともこの言葉のなかに、キリスト教と仏教との真実の対話を成立させる重要なポイントがあるように、私には思われます。
3  デルボラフ 私はドイツ人が仏教を学ぶにあたって、小乗仏教と区別される別の分野に対しても開放的だったと思います。過去数十年間を見ますと、ドイツ人はますます、中国、チベット、そして日本の仏教への関心を示しています。
 もちろん、われわれがともに望んでいるような仏教とキリスト教との対話は、両者がおのおのの立場を表明してはじめて可能になります。このことは近年とみに実現されてきています。以前は原典批判研究が主流でしたが、今日では、「受難」「愛」「生命」「信仰」といった両宗教体系の中心概念や、また微妙な問題である「神秘主義」すらも宗教哲学的に解明されつつあります。
 ルドルフ・オットーやハインリッヒ・デュモリンの研究に、鈴木大拙、上田閑照等の日本の仏教専門家の研究がつづいており、増谷文雄、西谷啓治、峰島旭雄も、この対話に参加しています。
 新旧両宗派のヨーロッパの代表的神学者であるアンリ・ド・ルバク、パウル・ティリッヒ、カール・ラーナーたちは、着実に研究をかさねております。
 その成果として、仏教に造詣の深いドイツのハンス・ヴァルデンフェルスは、京都学派の哲学者たちとのあいだに、問題探究のための突っこんだ対話を実現することができたのです。そこでは、主題と思惟形態の関係が問題ではなく、両宗教体系は神、善、人類の将来、あるいは「精神」そのものへの根本的問いかけにいかに貢献できるのかという、より核心にせまる視点が論議されています。
 こうした出あいは、方法論的側面でもおこなわれており、先に述べた努力により「解釈学」ないし「宗教間相互理解の論理」への手がかりも把握されるにいたったのです。これは積極的な歩み寄りという、ますます重要となる課題と可能性を、批判的に探りだそうとするものです。原典の比較対照は体系上の比較に、民族主義的偏見は「共感を基調とする客観性」に、それぞれ席をゆずることになります。そして、既存の差異を記述し、それを容認するところから、まず、相手に対する本質的な接近を可能にする自己反省と、自己批判の推進力が増大するのです。
4  こうした観点を裏づける多くの例と人名をあげることができますが、二つだけ指摘するにとどめます。まず、ハンス・ヴァルデンフェルスは「仏教の魅惑」を積極的に認めることにより、広く普及している「キリスト教的偏狭」に別れを告げるとともに、宗教上の寛容の問題を鋭く分析しています。
 二番目の指摘は、この対談で表明しているわれわれ自身の考察です。思いかえしていただけるかと思いますが、私がいちばん最初に明確にしたかったことは、比較と批判は異なる宗教体系間の実り豊かな対話のための不可欠な前提ではあるが、両者ともに自己批判するところまでいくべきだという点でした。こうした態度のなかに、両者をへだてる障害が見とおされ、その克服が可能となるのです。
 最後に、これまでほとんど言及されてきませんでしたが、キリスト教と仏教のあいだのもっとも重要な類似点を、ぜひとも指摘しておきたいと思います。
 これは、両宗教にとって重大な危機を意味するもののように思えます。何度も言ってきたことですが、両方とも他者への奉仕を自己完成――宗教的には、悟りや神への献身――への努力と結びつける倫理観から出発しています。しかし、他者への奉仕とは、最終的に、人間の世界につきまとう宿命と苦悩を克服するよう助けることです。しかもそれは、人間が悟りへの道を歩む以上、または、神の愛に身をゆだねることによってそれが可能であるとされる以上、好むと好まざるとにかかわらず両体系がはらむ傾向、すなわち、世界から逃避し、現実から遊離する傾向が強くなります。
 西洋ではイエスの「汝、悔い改めよ、神の国は近い」という勧告よりも以前から、理念の認識が身体と世界を脱する道である、というプラトン的解釈がありました。そして哲学的探究をほとんど死への憧憬と等しいものとみなす、このプラトン的解釈のうちのいくつかは、キリスト教の伝統のなかに浸透していきました。他方、ショーペンハウエルとその弟子たちが示したように、仏教的思惟の伝統も、悲観的な人生観からまぬかれているわけではありません。
5  池田 小乗教が自己の悟りのみを求めるあまり、現実から逃避する方向へ走ったのに対し、それを変革しようとしたのが大乗教であったことは、すでに述べたとおりです。しかしその大乗教も、ともすれば現実から逃避しようとする傾向を示してきました。
 それは、大乗教は現実の世の人々を救うことをめざしているものの、他面においては、自己の悟りも根本的目的であることに変わりはなく、その「自己の悟り」は現実を超越した彼方に設定されざるをえなかったからです。このことは、つねに仏教のみならず高等宗教の実践者の心していくべき、根本問題であるといっても過言ではないでしょう。
6  デルボラフ 人々が人生の現実によりしっかりと根を張ることができるようにとの考え方から、現実世界を超えようとする両宗教体系の性格を否認したり、弱めたりしようとするのは、まったく見当はずれでしょう。先に述べたように、われわれの存在の究極的な根本問題である死の問題は、宗教の助けなくして解決できるものではありません。
 にもかかわらず、キリスト教も、仏教も、現実主義と呼べる共通の態度をもつべきであると考えます。つまり、両宗教の実践的な重点は、最高の課題としての愛や慈悲による日常生活の浄化におかれるべきだということです。
 菩薩が他者への奉仕のために自己の涅槃を延期するといわれていることは、この態度が仏教にとって異質なものではないことの好例です。そしてキリスト教徒も、本来、他者への奉仕のために自分自身の至福――あるいは少なくとも、その欲求――を犠牲にしてもよいはずです。このような現実尊重という根本態度においても、キリスト教と仏教はたがいに似ているのであり、そこに、これら二つの宗教が、ありとあらゆる差異を乗り越えて相互理解できるための、決定的な基盤がある、と私は見ております。
7  池田 そのとおりです。利他にこそ仏教の本質があることを、多くの大乗経典は、くりかえし説いています。小乗教の説いた自己の悟りのみにとらわれている弟子たちを、大乗経典では「おまえたちは永久に成仏できない」ときびしく叱っているのは、このあらわれです。維摩経では大乗在家菩薩というべき維摩詰が文殊師利菩薩に、「あらゆる衆生に病いがあるかぎり、それだけ私の病いも続きます」(『改版 維摩経』長尾雅人訳注、中公文庫)と述べたことが叙述されています。
 この大乗の利他の精神とは、狭い自己中心の殻を打ちやぶって、他人の苦悩をわが苦悩と感じ、さらに他人の幸福を自分の喜びとしていく“慈悲”の立場、その実践をいっているのです。そこに、人間が人間らしくあるために、永遠に忘れられてはならない根本的戒めがあるといえましょう。
8  ルドルフ・オットー
 (一八六九年―一九三七年)ドイツのプロテスタント神学者。インド宗教の研究をとおして、宗教は人間にとって神秘的、非合理的な戦慄すべきところに本質がある、と分析。主著は『聖なるもの』。
 ハインリッヒ・デュモリン
 (一九〇五年―九五年)神学者。上智大学教授を歴任。『禅―歴史と形態』を五九年に刊行。
 上田閑照
 (一九二六年―)宗教哲学者。京都大学名誉教授。著書に『禅仏教―根源的人間』など。
 増谷文雄
 (一九〇二年―一九八七年)元日本宗教学会会長。東京外国語大学教授をへて都留文科大学学長。著書は『仏教とキリスト教の比較研究』他。
 西谷啓治
 (一九〇〇年―一九九〇年)宗教哲学者。京都大学、大谷大学教授を歴任。著書『現代社会の諸問題と宗教』他。
 峰島旭雄
 (一九二七年―)早稲田大学教授。著書『宗教と哲学の間』『浄土教思想の比較宗教哲学的研究』など。
 アンリ・ド・ルバク
 (一八九六年―?)フランスのカトリック聖職者、著述家。リヨン大学宗教史教授。
 パウル・ティリッヒ
 (一八八六年―一九六五年)ドイツ出身の神学者、哲学者。ナチを批判し追われて渡米。ハーバード大学教授など歴任。主著『組織神学』。
 カール・ラーナー
 (一九〇四年―八四年)ドイツのカトリック神学者、著述家。第二バチカン公会議の顧問をつとめる。

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