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日蓮大聖人・池田大作

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4 子どもの教育  

「21世紀への人間と哲学」デルボラフ(池田大作全集第13巻)

前後
8  以上のことから、道徳教育は、広く物事それ自体の論理構造や技術的可能性や倫理的要請に関する“具体的行為状況ないし実践場面の範例的啓蒙”である、ということが明らかになります。したがって、道徳教育には“指針的な規範の要請”に対する開放的態度ばかりではなく、この規範の要請が具体的に結びついている“状況”に対する知識も必要であるということになります。こうした課題を解決するためには、事情に応じて精神的に消化されるという前提つきで、専門知識が教えられなければなりません。
 この種の考察は、学術的教育学の専門領域に属することですが、教育は、社会の根本的要求から生まれるものですから、それ自体、規制的規範、つまりいわゆる“教育上の責任”の監督下にあります。こうした責任は、その本質からいって被教育者からひきだされるものであり、ここから、道徳上の躾と教養こそ、つぎの世代に対する教育において中心的課題となるものであることが明らかになります。
 こうした事情のもとで道徳教育が成功するためには、学校生活が、無償の道徳的な秩序と雰囲気のもとにいとなまれる必要があることは明らかです。
9  池田 非常に残念なことですが、今日、日本では、家庭内暴力や校内暴力の問題が深刻化しています。十四、五歳から十八歳ぐらいの少年少女が、家庭のなかでは母親に対して暴力をくわえ、学校では教師に暴力行為をはたらくという事件が広範におこっているのです。
 十四、五歳の少年はすでに、その親や教師と同じくらいか、あるいは、それよりも大きい体格であり、力も、成人なみです。ところが、精神的にはある意味で幼児とあまり変わっていないところに、衝動的に暴力に走ってしまう原因があるのではないかと思われます。
 また、教師の体罰の問題もあります。体罰が十分な正当性をもっておこなわれたときは、それなりの効果を生む場合もまったくないわけではないでしょうが、それであっても暴力をくわえられた人間のなかにかならず深い心の傷を残します。ましてや、教師が安易に体罰主義に依存している場合は、百害あって一利もないでしょう。これが、逆に、生徒の側からの暴力を誘発していることも少なくないようです。
 同様の暴力事件は、アメリカでも頻発していると聞きますし、事実、そうした問題をあつかった小説や映画が少なからずありますが、ドイツでも同じような状況なのでしょうか。
10  デルボラフ 家庭や学校における「暴力」は、先に私が言った秩序と雰囲気が壊れているという確かなしるしです。アメリカではかなり以前からあたりまえになっており、何回も映画の主題となっていますが、暴力が、日本でも大きな問題になりつつあることは残念なことです。その原因を追求することが必要ですが、その点については、別に論じたいと思います。
 ただ、ドイツにも校内暴力がありますが、ひんぱんにおこるのは生徒同士のけんかであり、教師や親に対する暴力行為はほとんど見られず、例外といってよいと思います。むしろ、親による「暴力」、とくに、幼児に対する父親の「暴力」のほうが問題となっています。
 私は、この「暴力の種」が、いつの日か、ドイツの学校でも芽を吹くことにならないかと心配しております。

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