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日蓮大聖人・池田大作

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6 「人間らしさ」の条件  

「21世紀への人間と哲学」デルボラフ(池田大作全集第13巻)

前後
6  キリスト教徒がたんに試練と見るような、人間生命のさけられない苦悩の体験も、仏教徒にとっては、六波羅蜜が示すように、自己完成の途上で乗り越えていくべき存在の基本的なあり方になるわけですね。そこで、決定的な段階が、智慧へみちびく禅定の深まりです。キリスト教的倫理をふくむ西洋の倫理は、苦悩に対するそのような治療法をもっていません。したがって、――先に述べた中世キリスト教の神秘体験を別とすれば――物事を的確に判断する能力としての「智慧」に先行する「禅定」の徳というものは、西洋倫理にとっては異質なのです(ここでいう禅定とは無為の「自己自身のなかに沈潜する」という意味です)。
 ただ、西洋の徳に関する規範も、「智慧」(ソフィア)を讃えています。ここでいう智慧は“全体の秩序に対する洞察”を意味しており、個人における実践的な行為に対する反省としての賢明さとか、倫理的判断能力などとは明確に区別されます。
 結局、「自己完成」一般について申し上げれば、西洋的意識においても、これは一つの美徳ですし、もしかすると、考えられるもっとも普遍的な美徳かもしれません。なぜなら、自己完成は、ギリシャの市民道徳にあるような「節度を守る」ということからはじまり、ソクラテス的な「自己探求」をへて、さらに、カントが人格の中心的義務として課した「自分自身をつねにみがく」ということにいたるまで、一貫して認められるからです。
7  しかし、いかなる倫理体系も、自分を慈しむ、つまり自己実現への努力ということだけでは構築できません。自己に対する義務ばかりでなく、他者に対する義務もあるという観点は、西洋の道徳規範においても、仏教においてもとうぜんなこととされています(ここで私は、仏教の六波羅蜜をこのような道徳規範と考えてよいという前提で話をすすめています)。そこで、注目すべきことと思えるのは、仏教の自己完成の思想には、カントも断固として拒否した快楽主義への志向がまったくないことです。つまり、幸福は他者への奉仕にあり、自分だけの享楽にはけっして存在しないのです。
 以上の比較考察をまとめてみて、とくに私が強調したいのは、悟りヘみちびく仏教の六波羅蜜の教えは、その方法においては多くの西洋の倫理との共通項をふくんでおり、その目的においては、人道主義的理念やキリスト教的愛の理念にかわるものであるということです。それゆえ、われわれ西洋人も真剣に受け取るべき重要な理念であると思います。
8  「自己自身を認識する個人的精神」
 アリストテレスの「ノエシス・ノエセオス」のこと。精神活動に対する反省をいう。
 ハンス・ヴァルデンフェルス
 (一九三一年―)ドイツのカトリック神学者。ボン大学教授。京都学派・西谷啓治博士の「絶対無」に関して研究、博士論文を書いた。

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