Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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4 ミリンダ王の問い  

「私の釈尊観」「私の仏教観」「続・私の仏教観」(池田大作全集第12巻)

前後
6  ナーガセーナの知恵
 松本 ミリンダ王は、機会あるごとに高名な修行僧を訪ね、対話を試みています。しかし、これといった人物は、なかなかみつからなかった。彼は、心のなかで次のように歎息したそうです。
 「ああ、実に全インドは空っぽである。ああ、実に全インドは籾がら〈のようなもの〉である。予とともに対論し、疑いをとりのぞくことのできる修行者あるいはバラモンは、だれ一人としていない」(前出)
 これは、バラモンはもちろん、仏教の修行者にとっても、非常に不名誉なことであったと思います。『ミリンダ王問経』の序話の部分には、当時の仏教僧侶が教団をあげて、ミリンダ王と対論できる僧侶をさがしているさまが描かれています。
 野崎 そこで、いよいよナーガセーナ(那先)比丘が登場してくるわけです。伝えられるところによれば、彼は大きな象と同じ日に生まれたので、この名が付けられた、という。インドでは、象はナーガ(那)と呼ばれ、たいへんに尊ばれていました。ミリンダ王が権力の第一人者とすれば、ナーガセーナは思想界の王者であるとの象徴を、この名が示していたと考えられます。
 経典によると、バラモンの家に生まれたナーガセーナは、幼時から学問を好み、すでに少年時代のうちに三ヴェーダ(バラモン教の聖典)を会得してしまった。しかし、彼は「これらのヴェーダはじつに空虚である」と考えて出家し、仏教僧侶となった。やがて青年僧侶ナーガセーナは、全インドにおいて並ぶ者のない論者となり、その名声は、サーガラと名づける都にいた、ミリンダ王の側近の耳にまで達することになるわけです。
 池田 おそらくナーガナーナ比丘は、ミリンダ王との対話にあたっては、万全の準備をもって臨んだにちがいない。なにしろ、全仏教徒の輿望を担つての都入りだったろうから。
 相手は異国から来た支配者である。いや、相手が単なる政治的支配者というだけならば、問題ではない。問題は、相手が西方の最高の教養・学問を身につけた第一級の知識人であり、それはまさしく東方と西方との思想の、英知をかけた対話だったからです。もし、この対決において敗れるならば、ひとりナーガセーナ比丘の名誉の問題ではない。仏教そのものが、衰退の道をたどることになってしまう。
 したがってナーガセーナ比丘は、仏法の偉大性については絶対の確信をもっていたであろうが、同時に、相当の決意を固めていたと思われる。
 野崎 ナーガセーナ比丘はミリンダ王との対話にあたり、師である尊者ローハナに、その決意のほどを語っています。
 「尊者たちよ、ミリンダ王一人だけでなく、尊者たちよ、たとい全インドの王たちがやってきて、わたしに質問を発しても、その〈難問〉のすべてに答えて解決してみせましょう。それですから、尊者たちよ、あなたがたは恐れずにサーガラの都に、おいでください」(前出)
 自信満々という感じですね。(笑い)
 松本 こうしてサーガラの都に入ったナーガセーナ比正は、経典には次のように紹介されています。少し長くなりますが、重要人物ですので、そのまま読んでみます。
 「かれはサンガ(仏教教団)の長、ガナ(弟子集団)の長、ガナの教師であり、その名は世に知られ、名声あり、多くの人々の尊敬をうけていた。また、かれは賢者、学者、智慧者にして聡明であり、博識に富み、巧みな説明家で教養があり、自信をもっていた。多くの知識を聞き知った人、三蔵に通じた師、ヴェーダに通達した人であり、広大な智慧を有し、伝承の教えに通じ、広大な無礙自在の理解力をもっていた。また、かれは九部門の師(ブッダ)の教えを会得し保持している人、最高完全なものに達した人であり、勝者(ブッダ)の言葉において教えの精神と〈文字の〉説明とを巧みに弁別したかれは、種々に答える雄弁の自信をもち、談論に巧みで、弁舌さわやかに話をした。〈それだから、人々にとって〉かれは近づき難く、打ち勝ち難く、超え難く、さまたげ難く、しりぞけ難い人であった。かれは沈着なること大海のごとく、不動なること山王のごとく、邪悪をうちすて、闇黒を駆逐し、光明をもたらし、偉大な雄弁家にして、他のガナ(弟子集団)の長にひきいられた人々をふるえあがらせ、他の異教徒を論破した。……」(前出)
 このあと、ナーガセーナ比丘を称える文は、まだえんえんと続きますが……。
 池田 むろん、これは後世の人が、ナーガセーナ比丘を称えるために書いたのであろう。が、仏法を世界的に流布していくためには、かくあらねばならないという教えとしても、読むことができる。ともかく、ギリシア世界の名君であったミリンダ王を打ち負かしたのであるから、けっしてオーバーな表現ではなかったのでしょう。二人の一問一答をみても、ナーガセーナ比丘は悠然たる態度で答えているね。
 松本 私たちにとっては、ちょっと考えこんでしまうような質問も、ナーガセーナ比丘は巧みな譬喩をもって、間髪を入れずに答えている。じつに見事な答え方ですね。
 その一例として、有名な「ブッダの実在の証明」(『ミリンダ王の問い』1)の項をみると、こんなふうに展開されています。
 「尊者ナーガセーナよ、あなたは、ブッダを現に見たことがありますか?」
 「いいえ、大王よ」
 「それでは、あなたの師はブッダを現に見たことがありますか?」
 「いいえ、大王よ」
 「尊者ナーガセーナよ、それでは、ブッダは実在しないのです」
 ここで私たちは、さて、どう答えたらいいか迷ってしまう。相手は実証主義者のギリシア人です。仏教の歴史から説き起こし、何をもって釈尊が実在した決定的証拠とするか、あれこれ考えると思います。しかし、ナーガセーナ比丘の答え方は違っていた。
 「大王よ、しからば、あなたは雪山におけるウーハー川を現に見られたことがありますか?」
 「いいえ、尊者よ」
 「それでは、あなたの父はウーハー川を現に見られたことがありますか?」
 「いいえ、尊者よ」
 「大王ょ、それでは、ウーハー川は実在しないのです」
 「尊者よ、実在するのです。わたしはウーハー川を現に見たことはないし、またわたくしの父も、ウーハー川を現に見たことはないけれども、しかも、ウーハー川は実在するのです」
 「大王よ、それと同様に、わたしは尊き師(ブッダ)を現に見たことはないし、またわたしの師も、尊き師を現に見たことはないけれども、しかも、尊き師は実在するのです」
 「もっともです、尊者ナーガセーナよ」
 野崎 なにか禅問答のようで、言葉の遊戯のようにも感じますが、見方によっては、西洋流の存在概念を皮肉たっぷりに批判した含蓄の深い受け答えでもありますね。
 ミリンダ王は、知識を重視し、現実経験を重んじるギリシア人らしい質問です。それに対し、ナーガセーナ比丘の答え方は、相手に答えさせておいて、自然に納得させてしまう。そこに、東洋的な知恵の発露をみる思いがいたします。後にミリンダ王も、ナーガセーナ比丘が、釈尊在世のシャーリプトラ(舎利弗)と並ぶ知恵者であることを認めています。
 池田 ウーハー川の譬喩も、見事だね。仏法には、「源遠流長」(源遠ければ流れ長し)という原理があるが、ヒマラヤの高山から流れ下った清流は、インド大地を潤し、大河となって海に注ぐ。それと同様に、インドにおいて仏教は、民衆の心を潤し、広く大衆のものとなった。ナーガセーナ比丘の時代は、すでに仏滅後数百年を経ているが、仏法の興隆しつつある実証をもって、遠い昔の釈尊の実在性と偉大さを証明することができる。
 野崎 つい最近まで、ヨーロッパの学者たちは、釈尊が歴史的人物であるかどうかを疑っていました。だから、二千年以上も前に、ミリンダ王が同じ疑問を抱いたというのも、なにか不思議なものを感じますね。
 池田 自分の目で見、触れることのできるものだけが真実であるという考え方は、他人の認識の不確かさを責めるには有効であっても、けっして正しいとはいえない。じつは自分自身、見たことも触ったこともないものであっても、真実であるとして信じており、また真実であることが多いのです。この西洋的な認識の偏頗さを、彼は衝いたといってよい。
 もっとも、東洋人には自明のこととされていることでも、西洋人にはなかなか理解できない面もあるかもしれない。それだけに、このミリンダ王とナーガセーナ比丘の二人の東西の哲人が、謙虚に、率直に対話を交わしたことは、歴史的にもきわめて重要な意義をもっといえるのではないかな。東西の歴史学者が、きそって『ミリンダ王問経』に注目するのも、うなずけるような気がする。

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