Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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I 仏典の結集  

「私の釈尊観」「私の仏教観」「続・私の仏教観」(池田大作全集第12巻)

前後
3  偉大な宗教者の教え
 松本 一般に歴史上の傑出した人物の死後には、なんらかの形で言行録が残されます。ところが、釈尊にしても、ソクラテスにしても、また孔子やナザレのイエスにしても、みな生前には、なにひとつ著作を残しませんでした。彼らの場合、弟子が言行録を集成し、しかも、それが人類数千年の文明に欠くことのできない源流となっています。
 ところで梅原猛氏は、そのうちソクラテスとイエスの場合は、二人の悲劇的な死をめぐって、多分に弟子が脚色した面が強い、とみています(『仏教の思想』「知恵と慈悲〈ブッダ〉」)。プラトンが、死に直面したソクラテスの姿を描いた『ソクラテスの弁明』『クリトン』『パイドン』にしても、またイエスの死と復活を教義化した『聖書』の新約書にしても、歴史的事実と違う部分があることは指摘されてきました。
 その点、仏教においては、初期経典には釈尊の人間的な真実味が感じられるが、後代に編纂された大乗経典になると、いかにも文学的な表現が多く、西洋の学者などは理解しにくいところがある、といわれます。しかし、われわれ東洋の仏教徒からみると、やはり大乗経典のほうに、圧倒的な魅力を感じるのですが……。
 池田 欧米の実証主義を反映して、宗教学者たちの仏教研究も、歴史的事実を掘り起こすことに重点がおかれる傾向にある。もちろん私も、こうした研究が大いに進められることには賛成です。
 しかし、ここで注意しなければならないことは、歴史的真実に迫るという名目で、現代人の持ち合わせている尺度や見方でもって、歴史上の偉人を裸にしていく、その方法論について一言したい。それが、かえって偉人の実像を浮かび上がらせ、現代の私たちのあいだに深い共感と感動を与えるものであればよいが、ともすれば偉大さの面を故意に無視し、欠点のみを強調することによって、並みの人間に引き下げようとする向きがないでもない。私は、そこに現代人の一種の倣慢さが潜んでいるのではないかと思う。
 いま挙げられた釈尊にしても、またソクラテス孔子やイエスにしても、その言行録には多少の脚色があったとしても、それは人間のあるべき理想を託したものであって、人びとにそれに迫ろうとする勇気と英知を湧きおこさせてきたのです。しかも、事実、そうした脚色をさしひいたとしても、彼らが人類三千年の文明社会にあって、類まれな偉人であったことに変わりはない。
 仏典にしても、『聖書』にしても、あるいはプラトンの著作でもいい、それは単に文学的作品であるのではない。そこには、汲めども尽きない人生の哲学と、偉大な宗教家、思想家の苦闘して得た知恵が、余すところなく語られているのです。もし彼らの言行録が、無味乾燥な歴史的事実の羅列であったとすれば、はたしてこれほど広く、かつ長期にわたって読まれたであろうか。
 とくに釈尊に関して、もう一つ忘れてならないことは、経文にもあるように、釈尊の説法は、すべて衆生をして仏道に入らしめんがためのものであったということです。したがって経典の結集者も、単に釈尊の言行録を整理するような心構えで取り組んだのではない。自ら「仏」と同じ境涯に立つのでなければ、釈尊の説法を理解できなかったであろうし、また後世に仏説を遺すこともできなかったでしょう。経文の一字一句が、すべて金文字の仏説であるというのは、そのような意義をもつことなのです。今われわれが、仏教徒として経巻を持ち、それをもって現代社会に挑戦しようとするからには、仏と
 同じ境涯、すなわち苦悩に沈む大衆に光を与え、真実の生き方を教えきっていける覚倍がなければならないと思う。

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